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邪馬台国は筑後山門+肥後山門

女山(ぞやま)から見下ろした筑後山門の風景筑後山門は、福岡県山門郡瀬高町(現在のみやま市)を中心に、柳川市、大牟田市、筑後市に八女市の一部(立花町)も含まれたと思われ、肥後山門を併せると、七万戸を収容する能力がありそうだ。下の写真の中央に卑弥呼の墓と思われる権現塚古墳が見える。私は【邪馬台国】を【筑後山門=筑後國山門郡】だと考えていましたが、『魏志倭人伝』に戸数七万余戸と記される【邪馬台国】は、当時の人々の生活様式では人口密度はあまり高くなれないと考えられることからも、その領域は極めて広範囲に亘っていたと思われます。そこで【筑後山門=筑後國山門郡】だけでは七万余戸に至らないのではないかとも思われました。【筑後山門=筑後國山門郡】の領域は福岡県みやま市、柳川市、大牟田市、筑後市、それに八女市の一部(多分立花町)辺り迄が邪馬台国の領域に含まれていたと考えられます。なかでも卑弥呼の居城の建つ邪馬台国の中心地はみやま市瀬高町辺りに在ったと考えられます。当地には女山(ぞやま)と云う山があり、多分卑弥呼の居城は女山の麓辺りに在ったのでしょう。又、この地には卑弥呼の墓と思われる径百余歩(50m)の権現塚古墳も見られます。即ち、筑後山門は邪馬台国の条件が十分に整っているわけですね。ところが邪馬台国研究者の中には所謂「縄文海進」の話を持ち出してきては、弥生時代の筑後山門は海の底だったので、弥生時代のこの地に七万戸の国なぞ有ったはずがないと云う人がいます。しかしながら「縄文海進」は、弥生時代の遥か昔、縄文時代前期の今からおよそ六千年前にピークを迎えたとされるもので、考古学的見地からは「縄文海進」は縄文時代後期には既に終わっており、弥生時代の筑後山門は現在とほぼ同様の広大な平野が広がっていたものと思われます。その証拠に地元瀬高町出身の考古学者【村山健治】氏が終身かけて行った発掘調査によると、筑後山門には弥生時代の遺跡どころか、縄文時代から弥生時代、古墳時代、更にはそれ以降の時代にかけて連続する遺物があちこちから大量に出土することが示されています。👇

【卑弥呼】の魏朝貢は景初二年(AD238)

長野 剛 氏のイメージした卑弥呼像 (2013) 『魏志倭人伝』には倭女王卑弥呼は景初二年(AD238)に魏に朝貢したと記されますが、現在の古代史学界や考古学界の大勢、及び推理作家の故松本清張氏、邪馬台国九州説派重鎮である安本美典氏、その他多くの邪馬台国研究者がこの景初二年の朝貢は間違いで、景初三年(AD239)の朝貢が正しいと主張しておられます。 しかし私はやはり『魏志倭人伝』に記されたとおり、卑弥呼の使者が帯方郡へ到着したのは景初二年六月だったと考えています。 そもそも景初三年説が生まれた背景は『日本書紀』の神功紀に「卅九年魏志曰く、明帝景初三年六月倭女王大夫難斗米等を遣して郡に詣る」と記されるからでしょう。 『日本書紀』編纂部は当時遣唐使が持ち帰った『魏志倭人伝』や唐代に編纂された『晋書』『梁書』『北史』或いは『翰苑』等を参考にしていたようですが、それ等には「魏景初三年公孫淵の誅されし後、卑弥呼始めて遣使朝貢す」と記されるのを『日本書紀』編纂者が信じて、引用したのだと思われます。  ならば『晋書』『梁書』『北史』にそう記される理由は、これ等の史書を編纂した姚思廉や李延寿等が『魏志東夷伝』序文に「景初中大いに師旅を興して淵を誅す、又潛軍を海に浮かべ樂浪帶方之郡を収む、而後に海表謐然し東夷屈服す」とあるのを見て、どうやら魏が二郡を奪取したのは公孫淵が滅んだ景初二年八月以降らしいから、『魏志倭人伝』の記す景初二年六月に帯方太守劉夏が倭使を洛陽に送るのは不可能であり、この記載は景初三年六月の間違いに違いないと考えたからでしょう。  ところが『魏志東夷伝』序文の「淵を誅す」と「潜軍を浮かべ」は又で繋がれており、「淵を誅した」後に「潜軍を浮かべた」とみるか、「淵を誅す」と「潜軍を浮かべ」を同時進行とみるかは読み手の受け取り方次第です。  元来、ここに来てくる潜軍とは、『魏志韓伝』にある「景初中、明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣、越海定二郡」に対応しています。 即ち、魏明帝(曹叡・そうえい)は、景初中に帶方太守・劉昕(りゅうきん)と樂浪太守・鮮于嗣(せんうし)に山東半島で水軍を整えさせると、密かに船で黄海を越えて朝鮮半島に上陸、帯方・楽浪二郡に攻め込まさせ、公孫淵の支配から奪取しています。 明帝は公孫淵の所謂退路を断つために先ずは二郡を攻略したわけです。明帝が劉昕と鮮于嗣を派遣した時期は、景初元年に明帝が幽州刺史・毌丘儉を遣わして、公孫淵を洛陽に呼び付けた時、公孫淵が逆に反乱を起こし、遼隧(りょうすい)の戦いで毌丘儉を追い返し、自ら燕王を名乗った後位のタイミングでしょう。 その後明帝は景初二年正月、蜀の丞相・諸葛亮孔明との戦いを終え、洛陽に帰還したばかりの司馬懿仲達に兵4万を与え、公孫淵討伐軍を派遣しますが、司馬懿軍は奇しくも景初二年六月に遼東に到着し、長い攻城戦の末に遂に襄平城が陥落、公孫淵父子が首を刎ねられたのは、同年八月となります。 即ち公孫淵誅殺の原因となった二郡陥落は景初二年八月以前でなければなりません。 以上より、姚思廉や李延寿は『魏志東夷伝』を誤読したことになり、倭使が景初二年六月に帯方郡に至ることは可能です。 これを仮に、卑弥呼の使が帯方郡を景初三年(AD239)6月に訪れていたとするならば、倭使は景初三年12月に新帝と謁見したことになるのですが、そうすると倭女王卑弥呼に贈られたとされる『詔書』は当年僅か八歳の幼帝・曹芳が書いたことになります。 ところが実際に『魏志倭人伝』を読んで貰うとお解りになるように、この『詔書』は実に奥深い、如何にも生命の炎が燃え尽きる直前の明帝らしい、実に哀愁漂う文章書かれており、到底八歳の幼帝・曹芳の書とは考えられません。 例えば卑弥呼に対し、「我甚だ汝を哀れむ」等と語っているのは、到底八歳の幼帝の発する言葉ではありません。 これを景初三年説派の中には、曹芳の代役となった曹爽か司馬懿仲達の言葉とする人も居ますが、そこまで無理をして、想像の説を強弁するのもどうかと思われます。 ところで、卑弥呼は元々帯方郡を所管していた公孫氏に毎年貢献しており、倭使がいつものように帯方郡に朝貢に来てみると統治者が魏に変わっていたので、貢献先の変更を余儀なくされたとする説が有りますが、使者には普通そのような権限はありません。貧弱な献物も公孫氏を軽く見た倭国が元より献物を渋っていたとするよりも、使者を慌ただしく旅立たせた為に、貢物を用意する十分な時間が無かったと考えた方が遥かに自然です。 私は当時の倭の海人族は『魏志倭人伝』にも記されるとおり、日常的に対馬海峡や朝鮮海峡を渡って南北に市擢し、所謂・海のネットワークを構築していたと考えています。そして当時の倭と大陸間を駆け回る海人族の齎す情報は、我々現代人が想像するよりも遥かに速く伝達され、正確で、内容も細微に渡っていたものと思われます。 そういった海人族の齎す情報を仕入れていた卑弥呼は、魏と呉を天秤にかけて蝙蝠外交を繰り返し、使者をも簡単に殺してしまう公孫淵が、貢献するに値しない貧相な統治者であることを知っており、大事な生口を貢ぐことはしなかったはずです。 卑弥呼はある日、魏が帯方郡を制した情報を受け取ると大喜びし、慌てて使者を遣したのでしょう。だがその為に時間的余裕がなく、貢物が男女生口十人と僅かな布だけに止まってしまったものと思われます。南に接する狗奴国と睨み合う倭国は大国魏と通じることで、強力な後ろ盾を得ようとしたのだと思われます。この卑弥呼と魏の付き合いは、正始八年、倭国と狗奴国の戦端が開かれた時、遂に役割を果たす時が来ます。 帯方郡へ辿り着いた倭使は、帯方太守劉夏(劉昕の間違いか同一人物?)の遣わした役人の案内で交戦中の遼東半島を避け、劉昕と鮮于嗣も用いた海上ルートを利用して、黄海を越えて山東半島に渡ると、その後は陸路を辿り、冬前には魏都洛陽へ到着し、12月に死の床に就く直前の明帝に謁見が叶ったようです。 景初二年12月、倭使に謁見した直後から病の床に臥すようになった明帝は、同月30日に崩御し、景初三年元旦に崩御したように暦を改訂したとする説、景初三年1月22日死亡説がありますが(Wikipedia)、正確な月日を知ることは困難です。とりあえず明帝の崩御したその日のうちに、明帝の養子、小帝・斎王曹芳(そうほう)が、後を継いで即位したたとされます。 このように明帝の死後、迅速に曹芳を即位させたにもかかわらず、魏は年号を改元せず、景初三年の儘としました。その理由はやはり景初三年を明帝の喪中としたのに加え、明帝の急な死により魏が政情不安定となったことを、敵対する呉や蜀に暫くの間悟られたくなかったのでしょう。 即位したばかりの幼帝・曹芳は、「現在造営中の宮殿の工事については、先帝の遺詔によって中止とし、官庁に属する60歳以上の奴婢(ぬひ)を解放して平民とする」との詔を出したとされています。 それと同時に、曹家の血族である大将軍・曹爽(そうそう)と大尉・司馬懿仲達の二人が、当時八歳の幼帝・曹芳を補佐することにしています。やはり魏は、喪中とした景初三年の間に政権の安定を図ろうとしていたようです。 さて、此処迄は景初二年説で時系列を辿れましたが、魏の正使の悌儁が倭国の首都・邪馬台国を訪問し、卑弥呼に謁見したのは正始元年とされており、景初三年の情報がすっぽりと抜け落ちていることも、景初三年の卑弥呼朝献説の存在理由となっています。  この件について私は、景初三年正月を明帝の喪中とした魏は同年中に正使を派遣できなくなり、次の年に延期したのだと考えています。 ところが難升米・都市牛利等の倭使は明帝の言葉通り、景初三年中に帯方郡使が倭国に還し遣わしたはずです。私はこの時の帯方郡使は倭国調査隊の役も担っており、郡使往来常所駐と記される伊都国駐留中に倭国の内情を綴った【倭国報告書】を記録し、その書は帯方郡を経て、最終的には洛陽の官邸に届けられたものと考えています。 【倭国報告書】は西晋の時代となっても洛陽の書庫に残されており、陳寿が『魏志倭人伝』を書くときに参考資料としたのでしょう。 この説は榎一雄の【放射説】及び私の考案した【反時計回り連続説】が伊都国中心に書かれている理由を説明し、ひいては【邪馬台国九州説】を確定的にする大きな根拠にもなるものと考えております。

反時計回り連続説②

倭国地図黒字と紫字は倭国=女王国連合黒字①~㉑は女王国の北の二十一国黒字㋐~㋕は邪馬台国へ向かう道程中の国紫字は倭国=女王国連合、その余の某国三国赤字は狗奴国=熊襲・隼人連合青字は芦原中国=素戔嗚尊・大国主命連合① 斯馬國(しまこく)=筑前国志摩郡(福岡県糸島市糸島半島)② 己百支國(いおきこく)=肥前国彼杵郡(長崎県佐世保市)③ 伊邪國(いやこく)=肥前国北高来郡伊佐早(長崎県諫早市)④ 郡支國(ぐしこく)又は(ぐきこく)=肥前国五島列島(長崎県五島市)⑤ 彌奴國(みなこく)=肥前国西彼杵郡(長崎市長崎市)⑥ 好古都國(こうこつこく)=肥前国高来郡(長崎県島原半島)⑦ 不呼國(ふここく)=肥前国杵島郡(佐賀県杵島郡白石町)⑧ 姐奴國(さなこく)=肥前国佐賀郡(佐賀県佐賀市)⑨ 対蘇國(とそこく)=肥前国三養基郡(佐賀県鳥栖市)⑩ 蘇奴國(そなこく)=筑後国三潴郡(福岡県久留米市)⑪ 呼邑國(こゆうこく)=筑後国八女郡(福岡県八女市)⑫ 華奴蘇奴國(かなそなこく)=豊後国日田郡(大分県日田市)⑬ 鬼國(きこく)=豊後国久住・九重(大分県竹田市久住町・玖珠郡九重町)⑭ 為吾國(いごこく)=豊後国大分郡(大分県大分市)⑮ 鬼奴國(きなこく)=豊後国速見郡(大分県別府市)⑯ 邪馬國(やばこく)=豊前国宇佐郡耶馬渓(大分県中津市)⑰ 躬臣國(くすこく)=豊後国玖珠郡(大分県玖珠郡玖珠町)⑱ 巴利國(はりこく)=筑前国杷木郡(福岡県朝倉市)⑲ 支惟國(きいこく)=肥前国三養基郡(佐賀県三養基郡基山町)⑳ 烏奴國(うなこく)=筑前国三笠郡(福岡県大野城市)㉑ 奴國(なこく) =筑前国那の縣(福岡県福岡市)  では実際にこれら二一ヶ国が連続しているかどうかを確かめねばなりません。 ①斯馬国の次の②己百支國の比定は難しいので後回しとし、試しに後ろ向き、時計回りに進んでみることに致しましょう。 ㉑奴国(なこく)の前は⑳烏奴国(うなこく)です。 すると、実際に奴国の範囲と思われる福岡市・春日市・那珂川町の南に接して大野城市が有ります。大野城市は大野村が、大野城が有ることで大野城市となりました。 大野城は倭国が唐と新羅の連合軍に大敗したAD662の白村江戦の後、唐の倭国侵攻に備えてAD663に天智天皇が建立を命じた朝鮮式山城です。 烏奴(うな)と大野(おおの)の音の響きはかなり近いものがあり、郡使には(おおの)の音が(うな)に聞こえ、「倭国報告書」に烏奴国の字を充てて記載したことは十分に考えられることです。 さて次の⑳烏奴国の前は⑲支惟國があり(きい)国と読めます。 すると、大野城市南の佐賀県三養基郡には基山町があります。 基山にもAD665に天智天皇の命で、基肄(きい)城が築かれています。 基山町は昔から肥前国基肄(きい)郡と呼ばれていたようです。 即ち、基肄(きい)国の名は卑弥呼時代から一千八百年間も残存しているようです。 次に⑲支惟國の前の⑱巴利国は(はり)国と読めます。 基山町の東に在る朝倉市は、甘木市と朝倉郡朝倉町、杷木町が合併して出来た市ですが、卑弥呼時代のこの国の中心地は、杷木(はき)に在ったものと思われ、杷木(はき)の音が郡使には(はり)に聞こえ、「倭国報告書」に巴利国と記載した可能性は高いでしょう。 ⑱巴利国の前は⑰躬臣國(くすこく)です。 此処には豊後国玖珠郡があります。躬臣と玖珠は何れも(くす)と読め、⑰躬臣國は玖珠国に比定できます。 更にその前には⑯耶馬国(やばこく)が在ります。 この地は地元九州人にはお馴染みの観光地で、紅葉や青の洞門で有名な耶馬渓があります。此処へ至ると音ばかりでなく、文字迄同じです。土地勘の全くない本州の研究者は、この耶馬国を頓珍漢な場所に比定する方が多いですが、九州人から見ると此の地しか有り得ません。さて、奴国からここ耶馬国迄、ちゃんと繋がることが解ったので、反時計回り連続説はほぼ成り立ちそうに思えてきました。 但し、⑯耶馬国(やばこく)の前の⑮鬼奴國(きなこく)からは、比定作業はやや難しくなってきますので、次は前の②己百支國から反時計回りに辿って行きたいと思います。 最初の①斯馬国は伊都国の北に繋がる半島国なので、次に繋がる②己百支國(いおきこく)は伊都国の西に在るはずです。以下を反時計回りに辿って行きましょう。①斯馬国の南に在る㋓伊都国の西には㋒末魯国が隣接します。この二国は既述の為、例によって簡略化に拘る陳寿により、連続する二十一国から省略されているようです。ところが㋒末魯国に比定される肥前国松浦郡の西に接して彼杵(そのぎ)郡が在ります。長崎県佐世保市を中心とする地域です。私はこの彼杵国を②己百支國に比定します。間にある二国を続けて省略された上に㋒末魯国は広大な領域を占める為、②己百支國は①斯馬国から相当離れた国となってしまい、二十一国が連続していることを解り難くした原因と思われます。彼杵(そのぎ)と己百支(いおき)の双方共読み方が難しく音もかなり違って比定は困難だが、己百支国=彼杵郡は表音文字のだけでなく、表意文字からもアプローチできます。壱岐国が一つ島の国で一支国であることから、支は島の意味と考えられます。すると己百支国は百の島をとり囲む国くらいの意味になるでしょう。実際、佐世保市周辺は小さな島の密集する地域であり、現在九十九島と呼ばれています。長い時間経過で島が一つ減ってはいますが、弥生時代には百の島をとり囲む国=己百支国と呼ばれていたと十分考えることが出来ます。次に有るのは③伊邪國(いやこく)です。肥前国北高来郡伊佐早、現在の長崎県諫早市を中心とした地域に比定します。(いさはや)→(いや)程度の違いは、十分に地名が現代に残っていると思われます。次に有るのは④郡支國(ぐしこく)です。次に繋がる長崎県五島列島に比定します。五島(ごしま)→(ぐし)で、地名にも関連性があります。壱岐国=一支国が一つ島の国で、支は島の意味でしたが、郡は群に通じ、郡支国は群を為す島の国、群島国と考えられます。弥生時代には群を為していた島が今では五個の島に集約されたようです。次に有るのは⑤彌奴國(みなこく)です。肥前国西彼杵郡、現在の長崎市辺りに比定されます。不彌国と奴国を併せたような國名を持つ彌奴國ですが、私は筑前国で隣り合う奴国と不彌国を、奴国は海人族の安曇族が、不彌国は同じく海人族の住吉族が治めていた国だと考えています。即ち彌奴国は、海運上重要な長崎の地に安曇族と住吉族が両族共に住んでおり、共同で統治していた国ではないかと考えられます。次に有るのは⑥好古都國(こうこつこく)です。肥前国高来郡、現在の島原半島に比定します。高来(たかく)郡は(こうこ)郡とも読めるので、高来(こうこ)都(津)国に繋がります。更に島原半島南端には口之津港があります。現在では(くちのつ)港と呼ばれているが、弥生時代は高来の津→(こうのつ)港だったかもしれません。 次は⑦不呼國(ふここく)です。 私は肥前国杵島郡、現在の佐賀県杵島郡白石町を中心とした地域に比定します。 此の地には嘗ての須古村が含まれ、不呼村に通じます。同地は弥生時代に須古(すこ)と呼ばれていたが、郡使には不呼(ふこ)と聞こえたか、或いは元々不呼(ふこ)だったものが、時代と共に須古(すこ)と訛ったのかも知れません。 次は⑧姐奴国(さなこく)です。 この国は肥前国佐賀郡。小城郡。神崎郡。即ち現在の佐賀県佐賀市。小城市。神埼市。神崎郡吉野ヶ里町辺りに比定します。 (さな)→(さが)と名称に関連性が認められます。奴(な)は後の世で賀(が)に訛ったのではないでしょうか?有名な吉野ヶ里遺跡はこの国に含まれますが、『魏志倭人伝』には特に指摘がなく、弥生時代中期(二世紀)に隆盛を極めた吉野ヶ里国は、卑弥呼時代の弥生時代末期(三世紀前半)は既に衰退調だったと考えられます。 次の⑨対蘇國(とそこく)⇒(とすこく)には、肥前国養父郡。三根郡。 現代の佐賀県鳥栖市を中心とした地域を比定します。(とそ)→(とす)と、現在でも地名が殆ど変わっていないものと思われます。 次は⑩蘇奴國(そなこく)です。 筑後国御井・三潴郡。現在の福岡県久留米市に比定します。 同地は地名からの比定は困難ですが、反時計回り連続説で、次に繋がる位置に在ることから比定されます。三潴(みずま)は海人族水沼君(みずまのきみ)が治めていた国で、当時の筑後川下流域は大雨の度に氾濫し、三日月湖(水沼)が多かったことからついた名のようです。蘇奴(そな)と三潴(みずま)の響きは僅か乍ら通じるものがあります。 次は⑪呼邑國(こゆうこく)なのですが、反時計回り連続説で三潴郡の次に来るのは、筑後国山門郡=邪馬台(やまと)国になります。この地も既述ということで、簡略化好きの陳寿に省略されてしまっているようです。此処さえ陳寿が省略しなかったら、所謂【邪馬台国論争】なるものは存在しなかったのですがねえ。しかしまあ、そのお陰で、古代史ロマンを十分に楽しませてもらいましたよ。 呼邑国は邪馬台国の次に繋がる、筑後国八女郡、現在の福岡県八女市に比定します。八女市黒木町にこの国の中心が在ったと思われ、 (こゆう)⇒(くろき)の発音に若干の関連性が認められます。 さて次は比定がかなり難しい⑫華奴蘇奴国(かなそなこく)です。 反時計回り連続説で八女の東方を見ると、豊後国日田郡が適合しますが、その地には、少し前まで前津江・中津江・上津江村が在ります。私は中津江村辺りに、この国の中心地が在ったのではないかと考えました。 中津江村には鯛生金山が有ります。明治時代に発見された金山ですが、鉱脈は昔からありますから、弥生時代にも同地で金が採れたがそのうち産出量が減り、採掘技術が革新されるまで忘れ去られていたかも知れません。私は華奴蘇奴国は金蘇奴国と見て、金が出た国なのでこの名が付けられたのではないかと考えました。 さて次の⑬鬼国(きこく)ですが、私はその名の通り、鬼が住む国だと考えました。 鬼の付く地名は全国に多数ありますが、特に火山国に多いようです。 火山国に行ったことがある方なら解るはずですが、ゴツゴツした溶岩、火砕流、火山灰に覆われ、植物の生育が悪くて森林が少なく、溶岩台地の間には草原や灌木林が散在し、あちこちから噴煙や湯、硫黄が噴き出しており、更には時折噴火して多数の死傷者を出す火山国は、まさしく鬼の住むに相応しい国です。 そう考えつつ、反時計回り連続説でみると、日田郡の東には久住連山が在ります。 昔久住(くじゅう)国は鬼の住む鬼住(きじゅう)国と呼ばれていたのが、住民たちが鬼の住む国と呼ばれるのは嫌だということで、何時頃からか訛って久住国になったのではないかと思われます。 次は⑭為吾国(いごこく)です。 すると豊後国久住の東には大分郡があります。私は為吾国にレ点を付けて、為レ吾国としました。そして吾為(ごい)国、(ごういた)国、王居た(おおいた)国と読み、大分郡、現在の大分市周辺に比定しました。 この説には四世紀の景行天皇九州巡行の折、此の地に暫く留まったことで、王来た→大分となったとする異説がありますが、景行天皇来豊後、伝説が変更されたのかも知れません。これは不彌国=宇美国が、神功皇后が誉田別命を産んだ国なので、産み国から宇美国と云われるようになったとされる伝説と同様に、後付のものです。 大分に王が居たのは弥生時代からの話で、此の地には卑弥呼時代以前から代々の王が居て、伊都国と同じく倭国参加後は、卑弥呼の女王国連合に統属していたと考えられます。 次は⑮鬼奴國(きなこく)です。為吾国=大分国で太平洋岸に達しましたから、今度は反時計回りに北へ向かうことになります。すると其処には豊後国速見郡、現在の大分県別府市が在ります。二つめの鬼国です。別府も久住同様、由布岳、鶴見岳が連なる火山国で温泉国であり、鬼の住む国に十分に適合します。鬼国=久住国との違いはこの地には良港があり、海運業の要地だったものと思われます。つまり港=那の在る国、即ち安曇族の国です。 『魏志倭人伝』には「女王国の東、海を渡ること一千余里、復国有り、皆倭種なり」と記されます。この場合の女王国は邪馬台国ではなく、女王国連合=倭国を指すと思われます。女王国の東の海とは豊後水道であり、女王国の東の海を一千余里渡った所に有る倭種の国とは四国になります。実際別府から東の海を遠望すると四国が見えます。大分県臼杵市と愛媛県八幡浜市の間は70㎞程あり、短里で一里=70mとすると70㎞は丁度一千里となり、豊後水道を渡る距離は一千余里。陳寿は女王国の東の海を渡った先の四国には倭人と同種の人間が住んでいるが、四国が倭国には含まれないことを知っていたので、四国の住民を敢えて倭人とは書かずに倭種と書いたと思われます。次の⑯邪馬國以下は既述なので、これで女王国より北の連続する二十一国は全て比定されました。

帯方郡から邪馬台国へ至る道程

 『魏志倭人伝』は帯方郡から邪馬台国へ至る道程上の国々に関し、戸数・道里、地形、官名、風習等を略載していますが、これ等の国々は既に江戸時代、新井白石によりほぼ比定されており、現在でも帯方郡、狗耶韓国、對馬国、一支国、末魯国、伊都国、奴国に関しては殆どの研究者の同意を得るところとなっています。但し不彌国に関しては、筑前国穂波郡(現在の飯塚市辺り)とする異説がありますが、私は不彌国の名称と伊都国・奴国から極めて近い百里とされることからも、やはり新井白石説の糟屋郡宇美町でよいものと考えています。尚、投馬国については諸説紛々ながら、私は薩摩国に比定しています。『魏志倭人伝』は日巫女が卑弥呼、那国が奴国と記されるように、所謂蔑字・悪字で書かれています。同様に薩摩国は悪字で殺馬国と書かれていたものが、長い間筆写を重ねるうちに殺の字が略されて、投の字となり、投馬国と記されたものが現代に残るのではないかと考えられます。投馬国は邪馬台国の北に有る倭国の構成国だとする研究者も多いようですが、この説は『魏志倭人伝』に単に投馬国が邪馬台国の前に記されることから、連続説でそう読んでいるに過ぎないと思われます。しかし連続説では、邪馬台国は九州南海中に沈むか種子島辺りの国となり、狗奴国の置き場も無く、どうやっても説明不能となりますが、放射説なら投馬国は伊都国から南に水行二十日、邪馬台国は伊都国から南に水行すれば十日、陸行すれば一月で至るので、投馬国が邪馬台国より南に有ると云うことで、『魏志倭人伝』が説明できるようになります。さて、新井白石が比定した、投馬国を除く帯方郡から邪馬台国へ至る道程上の国々は、帯方郡(韓国京城府=ソウル市辺り)狗耶韓国(韓国金海市・釜山市辺り)㋐對馬国(つしまこく)=対馬=対の島(二つ島)国㋑一支国(いきこく) =壱岐(一つ島)国㋒末魯国(まつろこく)=肥前国松浦郡(佐賀県唐津市・伊万里市・長崎県松浦市)㋓伊都国(いとこく) =筑前国怡土郡(福岡県糸島市前原)㋔奴国(なこく)=筑前国那縣(福岡県福岡市・春日市・那珂川町・新宮町)㋕不彌国(ふみこく)=筑前国宇美(福岡県糟屋郡宇美町)㋖邪馬台国(やまたいこく)=筑後国山門郡(福岡県みやま市)であり、それぞれの国へ至る里程(距離)は、帯方郡-狗耶韓国=7千余里。水行。乍南乍東。狗耶韓国-対馬国=1千余里。渡海。釜山港-厳原港 =108㎞対馬国-壱岐国 =1千余里。渡海。厳原港-郷ノ浦港=65.5㎞ 南 リン海壱岐国-末魯国 =1千余里。渡海。郷ノ浦港-唐津港=42㎞ 印通寺港-呼子港=26㎞末魯国-伊都国 = 5百里。東南陸行。唐津港-平原=37㎞ 呼子港-平原=47㎞此処迄の里程を全て加えると、帯方郡-伊都国=1万5百余里となります。上の表より『魏志倭人伝』で使用される里程を実際の距離と比較すると中国文献にある長里、一里=435mのはずはなく、明らかに短里、一里=60~100mが使われているようです。邪馬台国畿内説派は連続説を採用しているので、1万5百余里に伊都国-奴国の東南百里と奴国-不彌国の東百里を足すと、帯方郡-不彌国が1万7百余里となってしまいます。ところが『魏志倭人伝』には帯方郡-女王国(邪馬台国)は1万2千余里と記されています。すると帯方郡-邪馬台国の1万2千余里から帯方郡-不彌国の1万7百余里を引いた不彌国-邪馬台国は僅か1千3百余里しか残りません。これは壱岐国-伊都国の1千5百余里よりも短い距離で、到底不彌国から畿内大和に到達できる距離ではありません。困った畿内説派はこの里程の記事は無かったことにして、不彌国以降は日程記事のみを使うと勝手に決めたようです。更に畿内説派は、投馬国や邪馬台国へ向かう南は東の間違いとして、不彌国から東に投馬国迄の水行二十日と投馬国-邪馬台国間の水行十日+陸行一月を全て足し併せることで、なんとか邪馬台国を畿内大和に持っていけるとしています。このように『魏志倭人伝』に様々な改竄を加えねば決して成り立たない畿内説派は、九州説に対しては、放射説は文法上有り得ないと一方的に禁止して連続説を強要、不彌国-投馬国の南水行二十日と投馬国-邪馬台国の南水行十日陸行一月を全て足すと1千3百里を遥かに越え、九州南海上に行き着いてしまうではないかと非難しています。このように畿内説派は自説に対しては『魏志倭人伝』を自説に合うように、平気で改竄しまくりですが、九州説派に対しては急に厳しくなり、『魏志倭人伝』の読み方にさえも厳密な制限を加えています。そして各メディアを利用して、『方向で不利だが距離で有利な畿内説と方向で有利だが距離で不利な九州説』などと発言し、如何にも畿内説と九州説とが五分五分であるかのように印象づける操作をしていますが、九州説派は放射説を使いさえすれば伊都国-邪馬台国の1千5百余里を南水行十日陸行一月の日程で無理なく再現できるのです。実は放射説が文法上成り立たないとする畿内説派の論には何の根拠もありません。伊都国から『南邪馬台国へ至る水行十日』伊都国から南の邪馬台国へ水行する場合、伊都国の南は山ですから直接向かうことは出来ません。だから海岸線を辿りながら、九州沿岸を回り込み南へ向かうことになりますが、東回りでは相当遠回りとなるので現実的には西回りルートを進むことになります。ところが末魯国から伊都国迄「行くに前に人を見ず」と記されるほど困難な道程をわざわざ陸行して来た郡使が今来たばかりの行程を逆行するはずがありません。つまり、『魏志倭人伝』にある邪馬台国と投馬国への水行行程は伝聞記事なのです。郡使が倭人から伝聞した伊都国から邪馬台国への水行行程は、伊都国の港を出た船は先ずは西に向かって進み、平戸島を周回か平戸瀬戸を通過後南下し長崎半島先端の野母岬を回ると、次は東行して島原半島と天草下島の間の早崎瀬戸を抜けて有明海に入ります。すると今度は北上して奥地の干潟地帯迄入り込んで、東岸にある矢部川河口から遡上し、現在の筑後市船小屋辺りで船を降りることになります。其処からは卑弥呼の居城があったと思われる山門郡瀬高町の女山の麓迄はほんの僅かです。この水行行程は陸行よりもかなり回り道となるので、当時陸行よりも遥かに足の速かった船でも、十日は十分にかかったことでしょう。伊都国から投馬国へ至る『南水行二十日』同様に伊都国から南水行二十日で到達する投馬国は、途中までは邪馬台国と同じ航路を辿った後、早崎の瀬戸から有明海には入らずにそのまま更に南に水行し、薩摩半島を大きく回り込んで北上した現在の鹿児島市辺りに投馬国があったと思われます。その水行距離は丁度、邪馬台国迄の二倍程になります。

其の余の傍国と使驛通じる所三十国

其の余の傍国と使驛通じる所三十国さて、此処迄に反時計回り連続説で連続する二十一国が全て比定され、邪馬台国へ至る道程上の六国を足して重複する奴国を引いた二十六国に首都邪馬台国を加えると、女王国連合=倭国の構成国は計二十七国となります。ところが『魏志倭人伝』には今使驛通じる所三十国と記されています。過去の研究者はこの三十国を概数と考えた者と実数と考えた者が居る様ですが、実数と考えた者は二十七国に奴国を重複させ、投馬国を含め、何故か倭国の敵国狗奴国迄をも含め、三十国に合わせています。しかし実際には当時魏に朝貢していた倭の王は卑弥呼だけだったので、使驛通じる所三十国は全て倭国の構成国でなければなりません。狗奴国のような倭国の敵国は魏に朝貢していないので、三十国に入れてはいけないのです。すると使驛通じる所三十国は『魏志倭人伝』に國名の紹介される二十七国だけでは、どうしても三国足りなくなります。そんな中、私は国名の解っている小国二十七国の入った倭国地図を作成していたところ、郡使の滞在する伊都国から遠絶な豊後国の東部と南部にどうしても三箇所の空白が残ることに気付きました。そこで私はその三カ所の空白こそが残る三国の倭国の構成国であり、其の余の傍国ではないかと考えました。其の余の傍国三国を加えると、使驛通じる所三十国が全て出揃うことになります。しかし其の余の傍国の国名は『魏志倭人伝』は記されないので、当時の国名は後世の郡名から推測することになります。以下;其の余の傍国三国 ㉘ 国東国(くにさきこく)=豊後国国東郡(大分県国東市・豊後高田市・杵築市)㉙ 大野国(おおのこく)=豊後国大野郡(大分県豊後大野市)㉚ 海部国(あまべこく)=豊後国海部郡(大分県佐伯市)

反時計回り連続説①

 范曄の説は【漢委奴国王】銘の金印を賜った奴国を倭の極南界とすることが、実際には金印が志賀島から出土したことに矛盾しており、女王国の南に在るはずの狗奴国を、女王国の東の海を越えた倭種の国と混同せざるを得ないこともやはり、間違っている証拠と思われます。 范曄の間違いの原因はやはり二つの奴国を違う国だと見做したこと、連続して記される二十一国を戸数・道里を略載できない其の余の傍国として女王国の南に置いたこと、更には①斯馬国を邪馬台国に隣接する国と見做したことの三点だと思われます。 しかし、なによりも論理的な文を書く陳寿が、二つある奴国をなんの説明もなく只の奴国と記したことは考え難いです。 やはり奴国は一つなのでしょう。 もしそうであるならば、連続する二十一国中最後の㉑奴国と、邪馬台国へ至る道程中の㋔奴国は同じ国だと云うことになります。 すると邪馬台国へ至る道程中に有る㋔奴国の記事には、実際に戸数・道里が略載されていますので、奴国は戸数・道里が略載可能な国となります。そうすると連続する二十一国中、奴国以外の二十国は戸数・道里が略載されていないようだが、実は略載可能な国なのではないかと考えることが出来るわけです。 此処で反時計回り連続説によりますと、これ等の二十一国は次々に連続して在ることになりますので、戸数はともかく、道里に限っては実際に略載されていることになります。 するとこれ等二十一国は其の余の傍国ではなく、邪馬台国へ至る道程中の国と同様に女王国(邪馬台国)の北の戸数・道里が略載可能な国と見做すことが出来るわけです。 つまり其の余の傍国とは多分、その国名さえも記されていない本当の傍国のことなのでしょう。 以上の説明はかなり難しく聞こえますが、『魏志倭人伝』中のその他の場面の記載、例えば「租賦(税)を收む、邸閣有り、國國市有り。有無を交易し、大倭(倭国政府)が之を監さしむ。女王国以北には特に一大率を置き、諸国を監察す。(諸国)之を畏憚(いたん)す。常に伊都国にて治す。国中において勅史(しし)の如きあり」 この文によると女王国(邪馬台国)の北側に倭国の構成国が連続して並んでいることになり、其れ等の諸国を南から邪馬台国が、北からは卑弥呼が伊都国に置いた一大率が、何時でも睨んで監視しているイメージが描けるものと思われます。 以上の考察によると、連続する二十一国は女王国の北の戸数・道里の略載可能な国であるので、邪馬台国へ至る道程中の国から薩摩国に比定される㋖投馬国を除いた㋐對馬国、㋑一支国、㋒末魯国、㋓伊都国、㋔奴国、㋕不彌国と共に全て邪馬台国の北に在る戸数・道里の略載可能な国となります。 即ち、女王国=邪馬台国は女王国連合=倭国の最南端に在ることになります。 すると邪馬台国の南に接して、女王に属さない狗奴国を置くことが可能となります。 それでは陳寿は何故、わざわざ「女王國より以北は其の戸数・道里を略載可なりしも、其の余の旁國は遠絶にて詳らかにし得ず」と書きながら、戸数・道里が略載可能な、連続する二十一国の戸数・道里を略載しなかったのでしょうか? 此処では『魏志倭人伝』の著者・陳寿の立場に立って考えてみましょう。 陳寿が手にした倭国の資料にはおそらく、これら二十一国を含めて倭の国々の情報が、多分地図の形で戸数と共に記されていたと思われます。即ち、陳寿が戸数・道里を略載しようと思えばできたのですが、只でさえ二十一国もある倭の小国の道里をそれぞれ個別に文章で書いていくことは大変手間のかかることであり、しかも極めて困難なことでもあります。 ここで倭国地図を眺めていた陳寿が、記載の困難さに当惑し、中国史家らしく嘆息交じりに漏らした感想が、「女王國以北は其の戸数・道里を略載可なりしも、其の余の旁國は遠絶にて詳らかにし得ず」なのだと思われます。多分其の余の傍国の位置は地図上に大雑把にしか記されていなかったのでしょう。 それでも気を取り直した陳寿がなんとかしてこれ等二十一国の道里を略載しようとして思いめぐらした結果、考え付いたのが「次有・・国、次有・・国」と連続して記載する方法なのだと思われます。 陳寿はこのように記載することで、これ等二十一国が国境を接して連続する国々であることを示し、更にはこの文を挿入したことで、これ等二十一国の道里を略載した積りなのでしょう。 しかし、さすがの陳寿もこれ以上面倒な記載を続けるのは嫌になり、読者があまり興味がなさそうな小国の戸数までを記載するのは止めてしまったのだと思われます。

范曄(はんよう)の考えた倭国像

女王国の北に連続する二十一国を、紹煕本に従って並べてみます。① 斯馬國(しまこく)② 己百支國(いおきこく)③ 伊邪國(いやこく)④ 郡支國(ぐきこく) 紹興本では都支国(ときこく)と表記。⑤ 彌奴國(みなこく)⑥ 好古都國(こうこつこく)⑦ 不呼國(ふここく)⑧ 姐奴國(さなこく)⑨ 対蘇國(とすこく)⑩ 蘇奴國(そなこく)⑪ 呼邑國(こゆうこく)⑫ 華奴蘇奴國(かなそなこく)⑬ 鬼國(きこく)⑭ 為吾國(いごこく)⑮ 鬼奴國(きなこく)⑯ 邪馬國(やばこく)⑰ 躬臣國(くすこく)⑱ 巴利國(はりこく)⑲ 支惟國(きいこく)⑳ 烏奴國(うなこく)㉑ 奴國(なこく) これ等の二十一国の最初の①斯馬國は邪馬台国に続けて記される為、過去の研究者の多くは邪馬台国に隣接する国と見做したようです。そして二十一国の最後には㉑奴国が有ります。この奴国を邪馬台国へ至る道程上に在る奴国と同じ国と見るか、違う国だと見るかは意見の分かれる処です。 『後漢書東夷伝』は南宋の范曄がAD432に著しましたが、陳寿がAD280代に書いた『魏志倭人伝』を参考にしたとされます。ところが『魏志倭人伝』には問題の文「女王國以北は其の戸数・道里を略載可なりしも、其の余の旁國は遠絶にて詳らかにし得ず」とあることから、范曄は女王国(邪馬台国)以北の戸数・道里が略載可能な国とは、狗耶韓国から邪馬台国へ至る道程の記事中の実際に戸数・道里が略載されている㋐對馬国、㋑一支国、㋒末魯国、㋓伊都国、㋔奴国、㋕不彌国、㋖投馬国それに邪馬台国の八国であり、連続して記される二十一国には戸数・道里が略載されないのでその余の傍国とみて、女王国より南に在る国だと判断したようです。 この場合范曄は、連続する二十一国最後の㉑奴国と道程上の㋔奴国は別の国と見做したようです。 范曄の考えでは邪馬台国の南に①斯馬国以下の二十一国が次々に繋がることになり、㉑奴国が倭国の最も南に位置してしまうのですが、范曄は後漢が出来るだけ遠い東夷の国から貢献を受けていた方が名誉だと考えたのか、遠い方の㉑奴国を倭奴国王の居所と見做してしまい、倭の極南界と記しています。

高天原は邪馬台国ではなく倭国

みやま市瀬高町の女山に在る神籠石。古代の居城の存在を示唆する。明治時代末、東京帝国大学の白鳥庫吉教授は論文【倭女王卑弥呼考】を発表し、『魏志倭人伝』に記される【卑弥呼】とは、『古事記』『日本書紀』に記される【天照大神】のことであり、【高天原】は所謂天国ではなく、【邪馬台国】即ち【筑後山門】として地上に実在すると唱えています。現在、元産能大学教授で【邪馬台国の会】主宰を務められる、邪馬台国九州説派の第一人者である安本美典先生は、【天照大神】は【卑弥呼】と【台与】二人のダブルイメージであって、天岩屋籠り以前の【天照大神】は【卑弥呼】のようであるが、天岩戸開き以降の【天照大神】は【台与】のようだとする説を展開され、【高天原】に関しては、白鳥庫吉と同じく【邪馬台国】であると見做しています。しかし『魏志倭人伝』に【邪馬台国】は「女王乃所都」と記されており、卑弥呼が定めた【倭国】の首都ではあるが、【倭国】を構成する小国の一つに過ぎないと書かれています。私は、【倭国】を九州北部に在った小国三十国の連合国だと考えているので、これを『古事記』『日本書紀』になぞらえれば、【天照大神】が治めていた【高天原】とは【倭国】の首都【邪馬台国】だけでなく、【倭女王卑弥呼】が統治する【倭国】全体のことになります。【卑弥呼】は元々【邪馬台国女王】だったが、倭国大乱後、各小国の王により【倭国大王】に共立されたものと考えられます。そうすると安本美典先生が【高天原】に在るとされる【天香具山】や【天夜須河原】が実在する福岡県朝倉市が【邪馬台国】だとされる説は、其れ等が【倭国】に在りさえすれば【高天原】に在ることになるので、それ等の地が【邪馬台国】でなくとも良いことになります。第一、朝倉市は伊都国や不彌国から近すぎて、南邪馬台国に至る。水行十日陸行一月の記述に適合しません。しかも連続説で辿る安本先生の説では、不彌国と邪馬台国の間に投馬国の置き場がないので、最近の安本先生は投馬国を宗像国に比定され、伊都国や不彌国の南ではなく、北に持って行かれているようです。しかし、これでは『安本先生説』も『邪馬台国畿内説』と同じく、『魏志倭人伝』の記載を無視していることになります。ところが私の【反時計回り連続説】を用いると、朝倉市の位置には巴利(はり)国が在ります。すると、旧朝倉郡杷木町が、杷木(はき)⇒巴利(はり)の名称が一致することからも、巴利国は卑弥呼の時代、杷木町辺りに国の中心地が在ったものと思われ、私は朝倉市は巴利(はり)国だと考えています。巴利国は倭国のほぼ中央に位置し、倭国の首都邪馬台国からかなり近いことからも、倭国を構成する小国の王や代表者達(『記・紀』の語る八百万神)が倭国(高天原)中から集まって、天安(夜須)河原辺りで倭国会議を開いていた可能性があると考えられます。