范曄(はんよう)の考えた倭国像

女王国の北に連続する二十一国を、紹煕本に従って並べてみます。
① 斯馬國(しまこく)
② 己百支國(いおきこく)
③ 伊邪國(いやこく)
④ 郡支國(ぐきこく) 紹興本では都支国(ときこく)と表記。
⑤ 彌奴國(みなこく)
⑥ 好古都國(こうこつこく)
⑦ 不呼國(ふここく)
⑧ 姐奴國(さなこく)
⑨ 対蘇國(とすこく)
⑩ 蘇奴國(そなこく)
⑪ 呼邑國(こゆうこく)
⑫ 華奴蘇奴國(かなそなこく)
⑬ 鬼國(きこく)
⑭ 為吾國(いごこく)
⑮ 鬼奴國(きなこく)
⑯ 邪馬國(やばこく)
⑰ 躬臣國(くすこく)
⑱ 巴利國(はりこく)
⑲ 支惟國(きいこく)
⑳ 烏奴國(うなこく)
㉑ 奴國(なこく)
 これ等の二十一国の最初の①斯馬國は邪馬台国に続けて記される為、過去の研究者の多くは邪馬台国に隣接する国と見做したようです。そして二十一国の最後には㉑奴国が有ります。この奴国を邪馬台国へ至る道程上に在る奴国と同じ国と見るか、違う国だと見るかは意見の分かれる処です。
 『後漢書東夷伝』は南宋の范曄がAD432に著しましたが、陳寿がAD280代に書いた『魏志倭人伝』を参考にしたとされます。ところが『魏志倭人伝』には問題の文
「女王國以北は其の戸数・道里を略載可なりしも、其の余の旁國は遠絶にて詳らかにし得ず」
とあることから、范曄は女王国(邪馬台国)以北の戸数・道里が略載可能な国とは、狗耶韓国から邪馬台国へ至る道程の記事中の実際に戸数・道里が略載されている㋐對馬国、㋑一支国、㋒末魯国、㋓伊都国、㋔奴国、㋕不彌国、㋖投馬国それに邪馬台国の八国であり、連続して記される二十一国には戸数・道里が略載されないのでその余の傍国とみて、女王国より南に在る国だと判断したようです。
 この場合范曄は、連続する二十一国最後の㉑奴国と道程上の㋔奴国は別の国と見做したようです。
 范曄の考えでは邪馬台国の南に①斯馬国以下の二十一国が次々に繋がることになり、㉑奴国が倭国の最も南に位置してしまうのですが、范曄は後漢が出来るだけ遠い東夷の国から貢献を受けていた方が名誉だと考えたのか、遠い方の㉑奴国を倭奴国王の居所と見做してしまい、倭の極南界と記しています。


 だがこの考えでは仮にも【漢委奴国王】の金印を授かった倭の中心国であるはずの奴国が、其の余の傍国となってしまいます。又、金印が福岡市の志賀島から出たことにも合致しませんが、勿論、范曄は後世にてこの金印が志賀島から出土する事などを知る由も無いわけです。
 しかも最も困ったことに、女王国の南に在るはずの狗奴国の置き場が無くなってしまいました。
 悩んだ范曄は狗奴国が倭国(女王)に属さない国とされることから、女王国の東の海を渡った倭種の国と混同してしまったようです。
 実際、范曄の居た南宋の時代(五世紀)の倭には、畿内に首都を置く大和朝廷が既に成立しており、倭の五王が宋に貢献している状況であり、南宋に齎された当時の倭国の情報では、倭国の敵国とは東にある蝦夷のことだとされていたので、范曄のような見方をしてしまいがちだったのでしょう。


 ところで、現在の邪馬台国研究者にも特に邪馬台国畿内説派の中には、この范曄の考えを採用する研究者が未だに数多く見受けられるようですが、范曄の考えでは日本列島が、九州を北に本州を南に置いた南北に長い形態を採る混一疆理歴代国都之図のような倭国地図になってしまいます。
 もしそうであるならば、これ等二十一国全てが女王国(邪馬台国)の北に在る国だとしてよいことになります。そう考えた私は反時計回り連続説を考案しました。それについては又章を改めて書いていきたいと思います。

混一疆理歴代国都之図 日本が九州を北に本州を南に南北に長く描かれる。
この地図は1402年に李氏朝鮮で作られたもので、勿論、陳寿や范曄の時代にこの様な地図は無かった。

 ところがこの混一疆理歴代国都之図を見て、弥生時代から既に中国人はこの様な倭国のイメージ持っていたので、『魏志倭人伝』や『後漢書東夷伝』はそのように記されていると言い出す人がいますが、そんな説は話があべこべです。
 実際には十五世紀の朝鮮人で『後漢書東夷伝』を読んだ研究者が、そのイメージから混一疆理歴代国都之図の様な倭国地図を想像して書いたものと思われます。

全国邪馬台国連絡協議会 個人会員の私の邪馬台国論

弥生時代は戦乱の多い世となりましたが、文明の発展はめざましく、そのうちに邑同士の和睦が進むと、防衛力の面でも食料や金属器土器類の物資の生産や流通の面でも有利なように、近隣の邑が多数結託して小国が形成されていき、遂に倭には百餘国もの小国が林立するようになりました。  後漢の班固が前漢時代(BC206-AD8)のことを書いた『漢書地理志』には「楽浪海中に倭人有り。分かれて百餘国を為し、歳時を以て来たりて献見すると云う」とあります。  この時代既に倭は漢に朝貢していたようです。但し前漢時代の倭は未だ国家としての体を為しておらず、百餘国在った倭の小国は歳時(渡海の時期である初夏)になると小国毎に各々海を渡り、楽浪郡に漢への朝貢を求めて来ていたものと思われます。  やがて時代が進み後漢(AD25-220)ともなる頃には、倭の小国間の連携が進んで連合国が形成され、国家としての体制が次第に整ってきていたようです。  南朝宋の范曄の記した『後漢書東夷伝』には建武中元二年(AD57)光武帝が【漢委奴国王】銘の金印を倭奴国王に授与したことや、永初元年(AD107)安帝に生口160人を貢献した倭国王帥升らが記されており、初期の倭国が誕生していたことが確認されます。この時後漢に貢献する倭の連合国を倭国と名付けたのは勿論後漢朝です。そして倭国王帥升等と書かれた理由は、この時安帝に貢献したのは倭国連合を形成する複数の小国の王達であり、その代表が倭国大王たる帥升だったからでしょう。  初期の倭国は勿論地域国家であり【漢委奴国王】銘の金印が志賀島から発見されていることから、倭国を形成する小国の一つ奴国が現在の福岡市圏内に在ったのは明白です。即ち倭国が誕生した場所は奴国を含む地域で、壱岐・対馬ルートにより大陸との交易が盛んで、日本列島内で最も早く大陸の文化が移入されていた九州北西沿岸部だったものと思われます。  その後中国では後漢が滅び、魏・呉・蜀の三国時代となった頃には倭国連合に統合される小国の数も増えてきていたらしく、倭国は次第に国家としての完成度を高めていたようです。  『魏志倭人伝』の冒頭に「倭人は帯方東南大海之中に在り。山島に依って国邑を為す。嘗て百餘国、漢の時朝見する者有り。今使訳通じる所三十国」と記されています。  この文は明らかに『漢書地理誌』を踏襲しており、変わった点と云えば朝貢の

zenyamaren.org

邪馬台国問題に決着をつけるサイト

『魏志倭人伝』を書いた陳寿が参考にした「倭国報告書」は、帯方郡使が倭国を訪問した際、伊都国滞在中に書いたものであった。 つまり、伊都国以降の奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国、及び女王国以北の連続する二十一国の記事は全て、郡使が伊都国で倭人から伝聞した情報で書かれたことになる。即ち、伊都国を中心とした放射説、及び反時計回り連続説が成り立つのである。

0コメント

  • 1000 / 1000