北九州の玄界灘沿岸部辺りから始まった連合国倭国

福岡市志賀島の金印出土地公園に設置された【漢委奴国王】銘金印のモニュメント

連合国倭国の歴史は北九州の玄界灘沿岸部から始まった。

同地は壱岐・対馬ルートを介して朝鮮半島と頻繁に往来し、倭の中で文字や書物などの大陸の文化を真っ先に取り入れ、鉄・銅等の金属やその加工品、弥生式土器、麻や絹織物等の布製品、造船や建築等の木工技術、米などの食料を通商していた地域であるから、極めて当然の話である。
『後漢書東夷伝』曰く、「建武中元二年(AD57)倭奴國奉貢朝賀す、使人自らを大夫と称す、倭國之極南界也。

光武印綬を以て賜う。」

この時倭の奴国王が後漢の光武帝から賜った【漢委奴国王】銘の金印が福岡市の志賀島から出土したことで、

奴国が現在の福岡市の博多湾沿岸領域に在り、倭の奴国王が福岡市地域に居たことは極めて明白である。更に、
「安帝永初元年(AD107)、倭國王帥升等、生口百六十人を獻じ、請見を願う。」
此処で倭国王帥升が登場しており、倭国が成立していたことが示される。ここで、帥升等と複数型となっているのは、

当時の倭国は多数の小国が集まって出来た連合国であり、倭国を構成する小国王たちが揃って安帝に貢献し、

その代表を務めた者が倭国大王の帥升だったからであろうと思われます。

伊都国(糸島市前原)にある平原遺跡の方形墳丘墓(方形周溝墓とされるが?)は弥生時代末期の卑弥呼の統治時代(三世紀前半~中盤)のものと云われており、内部の石棺内、及びその周囲には多数の大型国産銅鏡が全て破砕された状態で埋葬されていた。
その中には日本最大の径46.5㎝もある内向花文鏡が何枚も含まれる。この鏡は、八つの内向き花弁模様を呈しており、伊勢神宮内宮に納められた天照大神の御神体とされる八咫鏡と同じ鏡と云われている。



筑後山門(みやま市瀬高町)にある権現塚古墳。
径50m弱(46m程)の円墳である。
ところで『魏志倭人伝』に卑弥呼の冢は径百余歩と書かれている。

仮に、この一歩が畿内説派の唱える中国古代文献にあるとされる(150㎝)ではなく、現代の我々の感覚と同じ一歩(50㎝)程のものであったなら、この墓は丁度径百余歩の卑弥呼の墓に相当する。


奈良県(畿内大和)纏向にある箸墓古墳。
長径278mもある巨大前方後円墳である。
邪馬台国畿内説派は卑弥呼の墓に比定するが、箸墓は『古事記』『日本書紀』に第七代考霊天皇の皇女で第十代崇神天皇の時代に巫女として活躍した倭迹迹日百襲姫命の墓と記されている。

すると当時の倭王は崇神天皇なので当然【倭迹迹日百襲姫命】は倭女王ではない。又、大物主神と云う夫も居て、『魏志倭人伝』に【卑弥呼】が「年長大なるも夫婿なし」とある記述とも完全に異なり、卑弥呼の墓とは全く考えられない。
第一この様な巨大前方後円墳が作られるようになったのは四世紀以降の古墳時代の特徴である。卑弥呼の時代AD238は未だ弥生時代であった。