連合国倭国の歴史は北九州の玄界灘沿岸部から始まった。
同地は壱岐・対馬ルートを介して朝鮮半島と頻繁に往来し、倭の中で文字や書物などの大陸の文化を真っ先に取り入れ、鉄・銅等の金属やその加工品、弥生式土器、麻や絹織物等の布製品、造船や建築等の木工技術、米などの食料を通商していた地域であるから、極めて当然の話である。
『後漢書東夷伝』曰く、「建武中元二年(AD57)倭奴國奉貢朝賀す、使人自らを大夫と称す、倭國之極南界也。
光武印綬を以て賜う。」
この時倭の奴国王が後漢の光武帝から賜った【漢委奴国王】銘の金印が福岡市の志賀島から出土したことで、
奴国が現在の福岡市の博多湾沿岸領域に在り、倭の奴国王が福岡市地域に居たことは極めて明白である。更に、
「安帝永初元年(AD107)、倭國王帥升等、生口百六十人を獻じ、請見を願う。」
此処で倭国王帥升が登場しており、倭国が成立していたことが示される。ここで、帥升等と複数型となっているのは、
当時の倭国は多数の小国が集まって出来た連合国であり、倭国を構成する小国王たちが揃って安帝に貢献し、
その代表を務めた者が倭国大王の帥升だったからであろうと思われます。