(完訳)『魏志倭人伝』

 ①倭の領域

(書下し文)

 倭人は帯方東南大海の中に在り、山島に依りて國邑を為す。

嘗て百余國、漢の時朝見する者あり、今使訳通じる所三十國。

(現代語訳)

倭人は帯方郡東南の大海の中に住んでおり、

山がちの島に寄り添って国や邑(ゆう/村)を形成している。

嘗て漢の時代百余国が朝見していたが、今使者と通訳を遣わす国は三十国である。

② 帯方郡~狗邪韓國

(書下し文)

 郡より倭に至るには、海岸に循(そ)いて水行し、韓國を歴て、

乍(あるい)は南乍は東、其の北岸、狗邪韓國に到ること七千余里。

(現代語訳)

帯方郡(現在のソウル市辺り)より倭に行くには、韓国西海岸に沿って航行し、

諸韓国を経由しつつ南に東に蛇行して、

倭の北岸狗邪韓國(現在の韓国金海市辺り)に七千里余りで到達する。

③對馬國

(書下し文)

 始めて一海を渡る、千余里にて對馬國に至る。

其の大官を卑狗と曰く、副を卑奴母離と曰く。

居る所絶島にて、方四百里ばかりなり。

土地山険にして、深林多く、道路は禽鹿(きんじょう)の径の如し。千余戸有り。

良田無く、海物を食(くら)いて自活し、船に乗りて、南北に市糴(してき)す。

(現代語訳)

始めて一つの海を渡る。千里程で對馬(対馬)國に到着する。

その大官を卑狗(日子/彦)と云い、副官を卑奴母離(夷守/ひなもり)と云う。

居る所は絶海の島であり、四方は四百里余りある。

土地は山が険しく深い林が多く、道路は鹿の通る獣道のようである。

千余戸有る。

良い田は無く、海産物を食べて自活し、船に乗って、

南北(狗耶韓国と壱岐国)に渡り、市場取引している。

④一大國(一支國)

(書下し文)

  又南に一海を渡ること千余里。名を瀚海と曰く。一大國に至る。

官を亦(また)卑狗と曰く、副を卑奴母離と曰く。方三百里ばかりなり。

竹木叢林(ちくぼくそうりん)多く、三千ばかりの家有り。

差(やや)田地有りて、田を耕せども猶(なお)食うに足らず、亦(また)南北に市糴する。

(現代語訳)

又南に向けリン海と云う名の海を千里程渡ると、

一大國(一支国/壱岐国)に到着する。

此処でも又、官を卑狗と云い、副官を卑奴母離と云う。四方は三百里程ある。

竹や木の叢(やぶ)や林が多い。

家は三千戸程ある。

少し田が有り、耕して米を作っているが、まだ食べるには足りず、

やはり南北(対馬国と末盧国)に渡って市場取引している。

⑤末盧國

(書下し文)

  又一海を渡ること千余里にて、末盧國に至る。四千余戸有り。

浜山海に居す。草木茂盛(そうもくもせい)し、行くに前に人を見ず。

好く魚鰒(ぎょふく)を捕え、水深浅無く、皆沈没して之を取る。

(現代語訳)

又、一海を千余里渡ると末蘆國に到着する。

四千戸余りの家が有り、山と海の間の浜に居住している。

草木が繁茂し、歩くと前の人が見えない程である。

魚や鰒(アワビ)を捕るのが上手く、深い処でも浅い処でも、皆潜水して之を取っている。

⑥伊都國

(書下し文)

 東南、陸行五百里にて、伊都國に到る。

官を爾支と曰い、副を泄謨觚・柄渠觚と曰く。

千余戸有り。世世王有り、皆女王國に統属す。

郡使の往来常に駐(とど)まる所なり。

(現代語訳)

東南方向に五百里歩くと伊都國に到着する。

官は爾支(にき)と云い、副官は泄謨觚(よもこ)・柄渠觚(へここ)と云う。

家は千戸程ある。代々王がいるが、皆女王國に統属している。

(帯方)郡使が倭國滞在中何時も駐在している所である。

⑦奴國

(書下し文)

  東南、奴國に至るに百里。

官を兇馬觚(しまこ)と曰く、副を卑奴母離と曰く。二万余戸有り。

(現代語訳)

東南に百里行くと奴國に至る。

官を兇馬觚(しまこ)と云い、副官を卑奴母離と云う。

家は二万戸余り有る。

⑧不彌國

(書下し文)

  東行して不彌國に至るには百里。

官を多模と曰い、副を卑奴母離と曰く。千余家あり。

(現代語訳)

東に百里行くと不彌國に至る。

官を多模(田守/たも)と云い、副官を卑奴母離と云う。

家は千戸余り在る。

⑨投馬國

(書下し文)

  南、投馬國に至る、水行二十日。

官を彌彌と曰く、副を彌彌那利と曰く。

五万余戸ばかり在り。

(現代語訳)

南に水行二十日で投馬國に至る。

官を彌彌(みみ)と云い、副官を彌彌那利(みみなり)と云う。

家は五万戸余り在る。

⑩邪馬壹(臺)國

(書下し文)

南、邪馬壹(臺)國に至る。女王の都する所なり。

水行十日、陸行一月。

官に伊支馬有り、次を彌馬升と曰く、次を彌馬獲支と曰く、次を奴佳鞮と曰く。

七万余戸ばかり在り。

(現代語訳)

南に行くと邪馬台国に到る。女王(卑弥呼)が都(首都)に定めた場所である。

水行十日、陸行一月を要する。

官に伊支馬(いしば)が有る。次を彌馬升(みまと)と云い、

次は彌馬獲支(みまわき)と云い、次を奴佳鞮(なかて)と云う。

家は七万戸余り程有る。

女王国より以北の連続する二十一國

(書下し文)

女王國より以北は其の戸数・道里を略載可なりしも、

其の余の旁國は遠絶にて詳らかにし得ず。

次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。

次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國有り。次に蘇奴國有り。

次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。

次に邪馬國有り。次に躬臣國有り。次に巴利 國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。

次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

その南に狗奴國あり。男子を王と為す。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。

郡より女王國に至ること萬二千余里。

(現代語訳)

女王國より北の國々についてはその戸数・道里が略載できますが、

其の他の旁國は遠く離れ、通交が途絶えているので、詳しくは知り得ません。

次に斯馬(しま)國有り。

次に己百支(いおき)國有り。

次に伊邪(いや)國有り。

次に郡支(ぐし)國有り。

次に彌奴(みな)國有り。

次に好古都(ここつ)國有り。

次に不呼(ふこ)國有り。

次に姐奴(さな)國有り。

次に対蘇(とそ)國あり。

次に蘇奴(そな)國有り。

次に呼邑(こゆう)國有り。

次に華奴蘇奴(かなそな)國有り。

次に鬼(き)國有り。

次に為吾(いご)國有り。

次に鬼奴(きな)國有り。

次に邪馬(やば)國有り。

次に躬臣(くす)國有り。

次に巴利(はり)國有り。

次に支惟(きい)國有り。

次に烏奴(うな)國有り。

次に奴(な)國有り。女王の境界が尽きる所である。

その(女王國の)南に狗奴(くな)國があり、男性を王としています。

狗奴國の官には狗古智卑狗(くこちひく)=菊池彦(きくちひこ)があります。

女王國には属していません。

(帯方)郡より女王國(邪馬台國)に至る距離は1万2千余里です。


【倭人の風俗】

 『黥面文身』

(書下し文)

男子は大小無く、皆黥面文身(げいめんぶんしん)す。

古(いにしえ)より以来(このかた)、其の使の中國に詣るや、皆自らを大夫と称す。

夏后(かごう)小康(しょうこう)の子、会稽に封ぜられるや断髪文身し、以て蛟龍の害を避く。

今倭の水人は好んで沈没し、魚蛤(ぎょごう)を捕る。

文身は亦(しか)し以て大魚水禽を厭(いこ)うが、後に稍(やや)以て飾りと為す。

諸國の文身各々異なり、或は左に或は右に、或は大に或は小に、尊卑にても差有り。

其の道里を計るに、當(当/まさ)に会稽東治(×冶)の東に在るべし。

(現代語訳)

男子は大人も小人=下戸も皆、黥面(顔の入墨)・文身(体の入墨)をしている。

昔から倭の使者が中国を訪問すると、誰もが自分のことを大夫(たいふ)と称した。

夏王・小康の庶子(無余/むよ=越の開祖)が会稽に移封されると、

現在の中国河南省登封市辺りに在った夏の都に帰る気の無いことを示すため、

江南の地の会稽に住む現地人=海人族の風習に合わせ、髪を切り、全身に刺青を入れた。

これは蛟龍(こうりゅう)の害=鮫に襲われる危険から逃れる為の呪いである。

当時の倭の水人(海人・漁師)は好んで潜水し、魚や蛤(ハマグリ)を捕っていた。

文身は大魚や水禽(水鳥)を避ける効果があるが、時が過ぎ今は只の飾りとなった。

小国毎に文身は異なっており、左右、大小の図柄に別けられ、身分によっても違う。

倭國の位置を推測すると、確かに会稽東治の東に在るようだ。

『倭人の髪型と服装』

(書下し文)

その風俗は淫らならず。

男子は皆露紒(ろかい)し、木綿を以て頭に招(か)け、

その衣は横幅、ただ結束して相連ね、略(ほぼ)縫うことなし。

婦人は被髪屈紒(ひはつくっかい)し、

衣を作ること単被(たんぴ)の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを被る。

禾稲(カトウ)・紵麻(チョマ)を種え、蚕桑緝績(サンソウシュウセキ)し、

細紵(サイチョ)・縑緜(ケンメン)を出ずる。

その地に牛・馬・虎・豹・羊・鵲(ジャク)なし。

兵には矛・盾・木弓を用うる。

木弓は下を短く上を長くし、竹箭(ちくぜん)或は鉄鏃或は骨鏃なり。

有無する所、詹耳(たんじ)・朱崖(しゅがい)と同じ。

(現代語訳)

倭人の風俗は淫らではない。

男性は皆坊主頭で手拭を頭に巻き、

その衣服は幅広の布をただ結んで繋げたもので、殆ど縫った部分は無い。

婦人は髪を束ね、屈げて結っており、

衣は単被(貫頭衣)のように、布の中央に穴を空け、そこに頭を通して被る。

稲や穀類、麻を植え、桑を食わせて蚕を飼い、

絹糸を紡いで、細かい麻布や絹の布を作り出す。

倭の地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲(カササギ)はいない。

武器には矛(ほこ)・盾(たて)・木の弓を用うる。

木弓は下が短くて上は長く、竹の矢に鉄又は骨の鏃を付ける。

有るものと無いものは詹耳・朱崖(何れも海南島にある地名)と同じである。

 『倭人の葬式・埋葬』

(書下し文)

倭の地は温暖にして、冬夏生菜を食す。皆徒跣なり。

屋室有り。父母兄弟の臥息、処を異にす。

朱丹を以てその身体に塗る、中國の粉を用うるが如し。

食飲には籩豆(ヘントウ)を用い、手もて食う。

その死するや棺有れども槨(カク)無し。土を封じて冢(ちょう)を作る。

始めて死するや、喪を停すること十日余りなり。

時に当たりて肉を食わず、喪主は哭泣(コツキュウ)するも、他人に就いては歌舞飲酒す。

已に葬るや、家をあげて水中に到りて澡浴(そうよく)し、以て練沐(れんもく)の如くす。

(現代語訳)

倭の地は温暖であり、冬も夏も生野菜を食べる。皆裸足である。

家の中は部屋に分けられる。父母兄弟の寝る部屋は別々である。

朱丹(赤い水銀の色素)を身体に塗るのは、中國で白粉を使うようなものである。

飲食には籩豆(=高坏/タカツキ)を用い、手で持って食べる。

死ぬと棺桶に葬るが、棺桶を囲む覆いは無く、土を盛り上げて塚(墳墓)を作る。

死んだ日から喪に服す期間は十日余りである。

喪の期間は肉を食べず、喪主は激しく泣き叫ぶが、弔問客は酒を飲み歌い踊る。

埋葬が終わると喪主一家は川で騒々しく水浴びし、水で身を清める儀式の様である。

『持簑』

(書下し文)

其の行来に海を渡り、中國へ詣るに、恒に一人、頭を梳(くしけず)らず、

蟣蝨(キシツ)を去らせず、衣服垢汚(コヲ)し、肉を食わず、婦人を近づけず、

喪人の如く使(せし)め、之を名づけて持衰(じさい)と為す。

若し行く者に吉善あれば、共に其の生口に財物を顧い、

若し疾病有り、暴害に遭わば便(たちま)ち之を殺さんと欲す。

その持衰謹まずと謂えばなり。

真珠・青玉を出す。其の山には丹有り。

其の木には枏(ゼン)・杼(チョ)・豫樟(ヨショウ)・楺(ジュウ)・櫪(レキ)・投(トウ)・

僵(キョウ)・烏號(ウゴウ)・楓香(フウコウ)有り。

その竹には篠(ジョウ)・簳(カン)・桃支(トウシ)有り。

薑(キョウ)・橘(キツ)・椒(ショウ)・蘘荷(ジョウガ)有るも、以て滋味と為すを知らず。

獮猿(ジエン)・黒雉(コクジ)有り。

(現代語訳)

倭人の往来で海を渡って中国に詣るときは、何時も一人、

頭を櫛で梳かず、蚤や虱を取らず、衣服を垢で汚し、肉を食わず、婦人を近づけず、

喪人の如き者を船に載せて行く。この者を名付けて持蓑(じさい)と云う。

もし航海が無事に済めば、その生口(持蓑)に皆が財物を与えるが、

もし航海中に病気の者が出たり、嵐に会えばすぐに持蓑を殺そうとする。

その持蓑が掟を破って世俗に塗れた祟りと見做されるからである。

真珠、青玉(翡翠)を産出する。倭の山からは丹(水銀)が出る。

倭の樹木には枏(ゼン・たぶのき)、杼(チョ・とちのき)、豫樟(ヨショウ・くすのき)、

楺(ジュウ・ぼけ)、櫪(レキ・くぬぎ)、投(トウ・すぎ)、僵(キョウ・かし)、

烏號(ウゴウ・山桑)、楓香(フウコウ・かえで)がある。

倭の竹には、篠(ジョウ・篠笹)、簳(カン・矢竹)、桃支(トウシ・布袋竹)がある。

薑(キョウ・しょうが)、橘(キツ・みかん)、椒(ショウ・さんしょう)、

蘘荷(ジョウガ・みょうが)もあるが、倭人は食べれば珍味であることを知らない。

獮猿(ジエン・大猿)、黒雉(コクジ・くろきじ)がいる。

 『卜』

(書下し文)

其の俗、挙事行来(きょじぎょうらい)に云為(うんい)する所あれば、

輒(すなわち)骨を灼(やき)、而(しか)して卜(ぼく)し、以て吉凶を占う。

先ず卜する所を告げ、その辞は令亀(れいき)の法の如く、火坼(カタク)を視て兆を占う。

その会同・坐起には、父子男女別無し。人性酒を嗜(たしな)む。

大人(たいじん)の敬する所を見れば、ただ手を摶(打)ち、以て跪拝(きはい)に当つ。

其の人の寿を考えるに、或は百年、或は八、九十年。

其の俗、国の大人は皆四、五婦、下戸も或は二、三婦。

婦人淫(いん)せず、妒忌(たくき)せず。盗窃(とうせつ)せず、諍訟(じょうしょう)少なし。

その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸及び宗族を滅ぼす。

尊卑各々差序あり。相(たがい)に臣服するに足る。

(現代語訳)

倭人の俗に、事ある毎に何か問題となることがあれば、

直ぐ様、(鹿など動物の)骨を焼いて占いをし、それにより吉凶を占う。

先ず占うものは何かを告げ、中国の亀甲を焼いて行う亀ト法のように、

熱で出来た骨の裂け目から兆しを判断し、辞(ジ・こたえ)を出す。

寄り合いにおいて座に就くには、父子男女分け隔てなし。一生酒を飲んで暮らす。

偉い人が敬意を表わす時は、ただ手を叩くことで丁寧なお辞儀に相当する。

倭人の寿命を鑑みるに、百年生きることもあるが、多くは八、九十年である。

倭人の風俗に国の大人は皆四、五人の妻があり、庶民でも二、三人妻を持つ者あり。

婦人は浮気をせず、嫉妬をしない。窃盗もしないので訴訟は少ない。

倭人が法を犯すと、軽い場合はその妻子を召上げて生口と成すが、

重い場合はその家族及び親戚一同を全員処刑する。

尊卑により各々に差を付けているが、互いに尊敬しているので秩序が保たれている。


【 倭国の税制】

(書下し文)

租賦を収む。邸閣有り。國國市有り。有無を交易し、大倭をして之を監せしむ。

(現代語訳)

租(そ)=収穫物などの物品税と賦(ぶ)=労役を国に奉納する。

邸閣(ていかく=納税品を収める倉庫)が有る。

各小国には市が立ち、有るものと無いものを物々交換していた。

倭国が大倭(倭国大王=卑弥呼)の名の元に税と市場を管理していた。

【一大率】

(書下し文)

女王國より以北には特に一大率を置き、諸國を検察する。諸國之を畏憚(いたん)す。

常に伊都國にて治す。國中において勅史(しし)の如きあり。

王が使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國に詣で、及び郡の倭國に使するに、

皆津に臨みて捜露(そうろ)し、文書・賜遺(ようい)の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯(ささく)し得ず。

(現代語訳)

女王國(この場合は邪馬臺國)より北には特に一大率を設置し、

倭国=女王國連合を構成する諸國を監視させ、諸國は一大率を畏れ憚っていた。

伊都國には一大率の総本部が設置され、何時も一大率を統治していた。

倭國中において一大率は、中國の刺史(武力を持った諸國の監察官)の如きであった。

王(卑弥呼)が京都(洛陽)・帯方郡・諸韓國(馬韓・辰韓・弁韓)に使者を遣わしたとき、

及び帯方郡から倭國に使者を遣わしたときは、

必ず(伊都國の)港において(一大率が)捜露(荷を解いて中身を検め)し、

文書や貢物を女王卑弥呼の元に伝送(一大率が責任をもって送り届け)し、

差錯(文書や貢物が盗まれるなどして女王に届かないこと)は有り得なかった。

 【倭人の挨拶】

(書下し文)

下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入る。

辞を伝え、事を説くには、或は蹲り或は跪き、

両手は地に據(よ)り、之が恭敬(きょうけい)を為す。

対応の声は噫(おう)という。比するに然諾(だく)の如し。

(現代語訳)

下戸が大人と道路で出逢うと、道を空けてわきの草むらに引っ込む。

礼を伝え、物事を説明するときは、或いは蹲(うずくま)り、或いは跪(ひざまず)き、

両手を地面に付けることにより、恭敬(尊敬)の意を示す。

返事するときは噫(おう)という。中国の然諾(だく/解った)と同じ意味のようだ。

 【倭女王卑弥呼】

(書下し文)

其の國、本また男子を以て王となし、住(とど)まること七、八十年、

倭國乱れ、相攻伐すること歴年、

乃ち共に一女子を立てて王となす。名を卑弥呼と曰く。

鬼道を事とし、能く衆を惑わす。

年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治す。

王と成りしより以来、見る有る者少なし。婢千人を以て自らに侍らしむ。

唯男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入する。

宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり。兵を持して守衛する。

(現代語訳)

其の國、即ち倭國は本来男王が七、八十年間も治めていたのだが、

倭国が乱れて、小國同士が何年もの間相争うことになったので、

倭国を構成する小國王達が集まって相談した結果、一人の女性を共に王に立てた。

その名を卑弥呼(日巫女/日御子)と云う。

鬼道(神懸かりした占い)を仕事とし、大衆を熱狂的に惹きつけた。

既に超高齢であるが、夫や婿は無く、弟が居て、助けて國を治めていた。

卑弥呼が王となって以来見た者は殆どおらず、女奴隷千人を傍らに侍らせていた。

唯男性一人だけが女王の食事を世話し、言聞を伝えるため居室に出入りしていた。

(卑弥呼の宮殿は)官室と楼観(物見やぐら)、城柵が厳かに設けられており、

常に人が居て、武器を持って守衛していた。

【 倭種の国】

(書下し文)

女王国の東、海を渡ること千余里。復国有り。皆倭種なり。

(現代語訳)

女王国の東の海を渡ること一千余里で又国がある。(其処に住む人は)皆倭種である。

【侏儒国】

(書下し文)

又侏儒国あり。其の南にあり。

人の長三、四尺。女王を去ること四千余里。

(現代語訳)

その他、侏儒國(=小人国)がある。女王国の南にある。

侏儒國に住む人の身長は三、四尺しかない。

女王国から離れること四千里程の位置にある。

【 裸國・黒歯国】

(書下し文)

又裸国・黒歯国有り。復その東南にあり。船行1年にして至るべし。

倭の地を参問するに、海中の州島の上に絶在し、

或いは絶え、或いは連なり、周施(しゅうせん)五千里ばかりなり。

(現代語訳)

また裸國と黒歯国がある。また、その(女王国の)東南に有り。船で行けば一年で辿り着く。

倭の地に参問する(倭を訪れた者に問うてみると)、海の中の州島の上に絶在しており、

寸断する所と連続する所が有り、周りを巡ると五千里程とのことである。

【 卑弥呼の魏への朝貢】

(書下し文)

景初二年六月。

倭女王、大夫難升米等を遣わして郡に詣り、天子に詣りて朝献せしめんことを求む。

太守劉夏吏を遣わし、将(もって)送りて京都に詣らしむ。

(現代語訳)

景初二年(西暦238年)六月。

倭の女王(卑弥呼)は大夫難升米(なしめ/なんしょうまい)等を遣わして帯方郡を訪問し、

天子(魏帝)に参内し、朝献させて欲しいと申し出た。

帯方郡太守の劉夏は吏(役人)を派遣し、倭使を案内して京都(洛陽)へ連れて行った。

明帝の証書(その一) 【親魏倭王】

(書下し文)

その年十二月、証書を報じて倭女王に曰く。

親魏倭王卑弥呼に制証す。

帯方太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利(としごり)を送り、

汝献ずる所の男生口四人、女生口六人・班布二匹二丈を奉り、以て至る。

汝が在る所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す、

此れ汝の忠孝なり、我甚だ汝を哀れむ。

今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付し、仮授せしむ。

汝、其の種人(しゅじん)を綬撫(ジュブ)し、勉めて考順を為せ。

汝が来使、難升米・牛利、遠きに渉(わた)り、道路勤労す。

今、難升米を以て率善中朗将と為し、牛利を率善校射と為し、銀印青綬を仮し、

引見労賜(いんけんろうし)し、還(かえ)し遣(つかわ)す

(現代語訳)

その年(景初二年)十二月。

(魏明帝は)、証書をしたためて倭の女王に伝え述べた。

【親魏倭王卑弥呼】に制証(認定)する。

帯方太守劉夏は使を派遣し、汝の大夫難升米・次使都市牛利を案内して、

汝の献上する男生口四人、女生口六人、まだら布二匹二丈を奉じて、洛陽に到着した。

汝が居る所は遥か遠けれども、使者を遣わして貢ぎ物を献上してきたのは、

汝の忠孝であり、我は甚だ汝を哀れむ(愛おしく思う)。

今、汝を【親魏倭王】と為し、金印紫綬を仮に装封して帯方太守に付託し、仮授しよう。

汝は自国民を寵愛し、勉めて我に孝行を為しなさい。

汝の遣した難升米・都市牛利は遠い処をはるばる至りて、実にご足労であった。

今、難升米を【率善中朗将】に都市牛利を【率善校射】と為し、銀印青綬を仮授し、

私明帝自らが謁見して労苦をねぎらい、丁重に倭国へ送り還してあげよう。

明帝の証書(その二) 【魏から倭への贈物(含「銅鏡百枚」)】

(書下し文)

今、絳地交竜綿五匹・絳地縐粟罽十帳・蒨絳五十匹・紺青五十匹を以て

汝が献ずる所の貢直(しつちょく)に答う。

又、特に汝に紺地句文綿三匹・細班華罽五帳・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・

銅鏡百枚・真珠・鉛丹各々五十斤を賜(あがな)い、皆装封して難升米・牛利に付す。

還り到らば録受(ろくじゅ)し、悉(ことごと)く以て汝が国中の人に示し、

国家汝を哀れむと知らしむべし。故に鄭重に汝に好(よき)物を賜うなりと。

(現代語訳)

今、絳地交竜綿(こうちこうりゅうきん)五匹・絳地縐粟罽(こうちすうぞくけい)十帳・

蒨絳(せんこう)五十匹・紺青(こんせい)五十匹(=何れも高級な布地)を以て、

汝が貢(みつぎもの)を献じてきた直(きもち)に答えよう。

注;裴松之は絳地(深紅の生地)は綈地(あつぎぬの生地)の筆写間違いと見做した。

又、特に汝に紺地(こんじ)の句文綿(くもんきん)三匹・細班華罽(さいはんかけい)五帳・

白絹五十匹(=以上高級布地)・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛や丹、

各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・都市牛利に付す(目録を持たせる)。

使者が還り着いたならば録受(倭使が持ち帰った目録に照らし合わせながら賜遺の品々を受け取り

=この時明帝は、まさか自分が直ぐに死ぬことになるとは思いもよらなかっただろうから、

陽遺の品々は倭使と同時に邪馬台国の卑弥呼の元に届けられるものと信じていた)、

全ての品物を広げて、汝が国中の人に展示して見せ、

魏が倭国と卑弥呼を庇護していることを倭国民に知らしめるべし。

それ故に丁重に汝に良い物を賜ったのであると。

【正始元年の魏の正使梯儁の倭国への派遣】

(書下し文)

正始元年、太守弓遵、建中校射悌儁等を遣わし、証書・印綬を奉じて倭国に詣り、

倭王に拜假し、ならびに証を齎し、金・帛・銀罽(ギンケイ)・刀・鏡・彩物を賜う。

倭王、使に因りて上表し、詣恩(けいおん)を答謝す。

(現代語訳)

正始元年(西暦240年)。

帯方太守弓遵(きゅうじゅん)は建中校射の悌儁(ていしゅん)等を派遣、証書・印綬を奉じて倭国を訪問し、

倭王に排仮(魏皇帝に代わって)倭王に面会して(詔書・印綬)を手渡し、

並びに(親魏倭王の)証書を齎し、金・帛(しろぎぬ)・銀罽(毛織物)・刀・鏡・彩物を賜う。

倭王卑弥呼は、返事を書いて使者に託し、(使を遣わしてくれた)恩に謝礼した。

【正始四年の倭と貢献】

(書下し文)

その四年、倭王、復、使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、

生口・倭錦・絳青縑(コウセイケン)・緜衣(メンイ)・帛布(フハク)・

丹・木𤝔(モクフ)・短弓を上献す。

掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壹拝す。

(現代語訳)

その(正始)四年(西暦243年)。

倭王は又もや使者の大夫伊声耆(いせき)・掖邪狗(えやく)等八人を派遣し、

生口・倭錦・絳青縑・緜衣(綿入れ)・帛布・丹・木𤝔(弓の取っ手)・短弓を献上した。

掖邪狗等は【率善中郎将】の印綬(銀印青綬)を壹拝(皇帝から直接手渡された)す。

正始六年の倭の貢献】

(書下し文)

その六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮授せしむ。

(現代語訳)

その(正始)六年(西暦245年)。

(魏は)詔して、倭の難升米に黄幢(こうどう)を賜い、郡に付し(届け)て仮授した。

【卑弥呼の死】

(書下し文)

其の八年、太守王頎(おうき)官に至る。

倭女王・卑弥呼と狗奴国男王・卑弥弓呼(ひみくこ)は素より和せず。

倭は載斯(さし)・烏越(うえつ)等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。

塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎し、

難升米に排仮せしめ、檄を為して之を告喩す。

卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩。徇葬する者、奴婢百余人。

更に男王立つも、国中服せず。更に相誅殺すること、当時千余人を殺す。

復、卑弥呼の宗女、壹(臺?)與、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。

(張)政等、檄を以て壹(臺?)與を告喩す。

(壹・臺)與、倭大夫率善中朗将掖邪狗等二十人を遣わし、(張)政等を送り還らしむ。

因りて臺に詣り、男女生口三十人を献上し、

白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。

(現代語訳)

正始八年(247年)、帯方太守王頎(おうき)が(魏都洛陽の)官(官邸)に到着した。

倭国の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼は元来和平を為し得ませんでした。

倭国は(この度)載斯(さし)・烏越(うえつ)等を遣わして帯方郡に詣で、

両国が相攻撃(戦争状態)に至った状況を伝えてきました。

(そこで私王頎は)塞曹掾史(そくそうえんし)張政等を派遣して、(帯方郡に付託されていた)

詔書・黄幢を(倭に)持ち込み、(王頎に代わって)難升米と面会して(詔書・黄幢を)授け、

激(御布令書)を造って、(戦争中の倭国と狗奴国の両軍)に告喩(告知)した。

(張政等が到着した時)卑弥呼は以て(既に)死んでいた。

大いなる冢(ちょう・塚・墓)が作られた。その径は百余歩だった。

殉葬された者は奴婢百余人だった。

その後男王が立つも(倭)国中が服従せず、互いに殺し合い、この時千人以上が殺された。

そこで卑弥呼の宗女壹(臺)與、年十三歳を立てて王と為すと、遂に倭国中が定まった。

(張)政等は激(御布令書)を以て、壹(臺)與を告喩(倭国中に告知)した。

壹(臺)與は倭の大夫、率善中朗将掖邪狗等二十人を遣わし、張政等を送り還した。

掖邪狗等はその儘、臺(=魏都洛陽)を訪問し、男女の生口三十人を献上し、

白珠(しろたま・水晶)五千孔、青大勾珠(翡翠製の青い大きな勾玉)二枚、

異文雑錦(いぶんざつきん・異国模様のある錦織)二十匹を貢いだ。