高天原は邪馬台国ではなく倭国

みやま市瀬高町の女山に在る神籠石。古代の居城の存在を示唆する。



明治時代末、東京帝国大学の白鳥庫吉教授は論文【倭女王卑弥呼考】を発表し、『魏志倭人伝』に記される【卑弥呼】とは、『古事記』『日本書紀』に記される【天照大神】のことであり、【高天原】は所謂天国ではなく、【邪馬台国】即ち【筑後山門】として地上に実在すると唱えています。

現在、元産能大学教授で【邪馬台国の会】主宰を務められる、邪馬台国九州説派の第一人者である安本美典先生は、【天照大神】は【卑弥呼】と【台与】二人のダブルイメージであって、天岩屋籠り以前の【天照大神】は【卑弥呼】のようであるが、天岩戸開き以降の【天照大神】は【台与】のようだとする説を展開され、【高天原】に関しては、白鳥庫吉と同じく【邪馬台国】であると見做しています。

しかし『魏志倭人伝』に【邪馬台国】は「女王乃所都」と記されており、卑弥呼が定めた【倭国】の首都ではあるが、【倭国】を構成する小国の一つに過ぎないと書かれています。


私は、【倭国】を九州北部に在った小国三十国の連合国だと考えているので、これを『古事記』『日本書紀』になぞらえれば、【天照大神】が治めていた【高天原】とは【倭国】の首都【邪馬台国】だけでなく、【倭女王卑弥呼】が統治する【倭国】全体のことになります。

【卑弥呼】は元々【邪馬台国女王】だったが、倭国大乱後、各小国の王により【倭国大王】に共立されたものと考えられます。

そうすると安本美典先生が【高天原】に在るとされる【天香具山】や【天夜須河原】が実在する福岡県朝倉市が【邪馬台国】だとされる説は、其れ等が【倭国】に在りさえすれば【高天原】に在ることになるので、それ等の地が【邪馬台国】でなくとも良いことになります。

第一、朝倉市は伊都国や不彌国から近すぎて、南邪馬台国に至る。水行十日陸行一月の記述に適合しません。

しかも連続説で辿る安本先生の説では、不彌国と邪馬台国の間に投馬国の置き場がないので、最近の安本先生は投馬国を宗像国に比定され、伊都国や不彌国の南ではなく、北に持って行かれているようです。
しかし、これでは『安本先生説』も『邪馬台国畿内説』と同じく、『魏志倭人伝』の記載を無視していることになります。
ところが私の【反時計回り連続説】を用いると、朝倉市の位置には巴利(はり)国が在ります。すると、旧朝倉郡杷木町が、杷木(はき)⇒巴利(はり)の名称が一致することからも、巴利国は卑弥呼の時代、杷木町辺りに国の中心地が在ったものと思われ、私は朝倉市は巴利(はり)国だと考えています。
巴利国は倭国のほぼ中央に位置し、倭国の首都邪馬台国からかなり近いことからも、倭国を構成する小国の王や代表者達(『記・紀』の語る八百万神)が倭国(高天原)中から集まって、天安(夜須)河原辺りで倭国会議を開いていた可能性があると考えられます。


全国邪馬台国連絡協議会 個人会員の私の邪馬台国論

弥生時代は戦乱の多い世となりましたが、文明の発展はめざましく、そのうちに邑同士の和睦が進むと、防衛力の面でも食料や金属器土器類の物資の生産や流通の面でも有利なように、近隣の邑が多数結託して小国が形成されていき、遂に倭には百餘国もの小国が林立するようになりました。  後漢の班固が前漢時代(BC206-AD8)のことを書いた『漢書地理志』には「楽浪海中に倭人有り。分かれて百餘国を為し、歳時を以て来たりて献見すると云う」とあります。  この時代既に倭は漢に朝貢していたようです。但し前漢時代の倭は未だ国家としての体を為しておらず、百餘国在った倭の小国は歳時(渡海の時期である初夏)になると小国毎に各々海を渡り、楽浪郡に漢への朝貢を求めて来ていたものと思われます。  やがて時代が進み後漢(AD25-220)ともなる頃には、倭の小国間の連携が進んで連合国が形成され、国家としての体制が次第に整ってきていたようです。  南朝宋の范曄の記した『後漢書東夷伝』には建武中元二年(AD57)光武帝が【漢委奴国王】銘の金印を倭奴国王に授与したことや、永初元年(AD107)安帝に生口160人を貢献した倭国王帥升らが記されており、初期の倭国が誕生していたことが確認されます。この時後漢に貢献する倭の連合国を倭国と名付けたのは勿論後漢朝です。そして倭国王帥升等と書かれた理由は、この時安帝に貢献したのは倭国連合を形成する複数の小国の王達であり、その代表が倭国大王たる帥升だったからでしょう。  初期の倭国は勿論地域国家であり【漢委奴国王】銘の金印が志賀島から発見されていることから、倭国を形成する小国の一つ奴国が現在の福岡市圏内に在ったのは明白です。即ち倭国が誕生した場所は奴国を含む地域で、壱岐・対馬ルートにより大陸との交易が盛んで、日本列島内で最も早く大陸の文化が移入されていた九州北西沿岸部だったものと思われます。  その後中国では後漢が滅び、魏・呉・蜀の三国時代となった頃には倭国連合に統合される小国の数も増えてきていたらしく、倭国は次第に国家としての完成度を高めていたようです。  『魏志倭人伝』の冒頭に「倭人は帯方東南大海之中に在り。山島に依って国邑を為す。嘗て百餘国、漢の時朝見する者有り。今使訳通じる所三十国」と記されています。  この文は明らかに『漢書地理誌』を踏襲しており、変わった点と云えば朝貢の

zenyamaren.org

邪馬台国問題に決着をつけるサイト

『魏志倭人伝』を書いた陳寿が参考にした「倭国報告書」は、帯方郡使が倭国を訪問した際、伊都国滞在中に書いたものであった。 つまり、伊都国以降の奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国、及び女王国以北の連続する二十一国の記事は全て、郡使が伊都国で倭人から伝聞した情報で書かれたことになる。即ち、伊都国を中心とした放射説、及び反時計回り連続説が成り立つのである。

0コメント

  • 1000 / 1000