反時計回り連続説①


 范曄の説は【漢委奴国王】銘の金印を賜った奴国を倭の極南界とすることが、実際には金印が志賀島から出土したことに矛盾しており、女王国の南に在るはずの狗奴国を、女王国の東の海を越えた倭種の国と混同せざるを得ないこともやはり、間違っている証拠と思われます。
 范曄の間違いの原因はやはり二つの奴国を違う国だと見做したこと、連続して記される二十一国を戸数・道里を略載できない其の余の傍国として女王国の南に置いたこと、更には①斯馬国を邪馬台国に隣接する国と見做したことの三点だと思われます。

 しかし、なによりも論理的な文を書く陳寿が、二つある奴国をなんの説明もなく只の奴国と記したことは考え難いです。

 やはり奴国は一つなのでしょう。

 もしそうであるならば、連続する二十一国中最後の㉑奴国と、邪馬台国へ至る道程中の㋔奴国は同じ国だと云うことになります。
 すると邪馬台国へ至る道程中に有る㋔奴国の記事には、実際に戸数・道里が略載されていますので、奴国は戸数・道里が略載可能な国となります。そうすると連続する二十一国中、奴国以外の二十国は戸数・道里が略載されていないようだが、実は略載可能な国なのではないかと考えることが出来るわけです。
 此処で反時計回り連続説によりますと、これ等の二十一国は次々に連続して在ることになりますので、戸数はともかく、道里に限っては実際に略載されていることになります。
 するとこれ等二十一国は其の余の傍国ではなく、邪馬台国へ至る道程中の国と同様に女王国(邪馬台国)の北の戸数・道里が略載可能な国と見做すことが出来るわけです。
 つまり其の余の傍国とは多分、その国名さえも記されていない本当の傍国のことなのでしょう。


 以上の説明はかなり難しく聞こえますが、『魏志倭人伝』中のその他の場面の記載、例えば
「租賦(税)を收む、邸閣有り、國國市有り。有無を交易し、大倭(倭国政府)が之を監さしむ。女王国以北には特に一大率を置き、諸国を監察す。(諸国)之を畏憚(いたん)す。常に伊都国にて治す。国中において勅史(しし)の如きあり」
 この文によると女王国(邪馬台国)の北側に倭国の構成国が連続して並んでいることになり、其れ等の諸国を南から邪馬台国が、北からは卑弥呼が伊都国に置いた一大率が、何時でも睨んで監視しているイメージが描けるものと思われます。
 以上の考察によると、連続する二十一国は女王国の北の戸数・道里の略載可能な国であるので、邪馬台国へ至る道程中の国から薩摩国に比定される㋖投馬国を除いた㋐對馬国、㋑一支国、㋒末魯国、㋓伊都国、㋔奴国、㋕不彌国と共に全て邪馬台国の北に在る戸数・道里の略載可能な国となります。

 即ち、女王国=邪馬台国は女王国連合=倭国の最南端に在ることになります。

 すると邪馬台国の南に接して、女王に属さない狗奴国を置くことが可能となります。

 それでは陳寿は何故、わざわざ「女王國より以北は其の戸数・道里を略載可なりしも、其の余の旁國は遠絶にて詳らかにし得ず」と書きながら、戸数・道里が略載可能な、連続する二十一国の戸数・道里を略載しなかったのでしょうか?

 此処では『魏志倭人伝』の著者・陳寿の立場に立って考えてみましょう。

 陳寿が手にした倭国の資料にはおそらく、これら二十一国を含めて倭の国々の情報が、多分地図の形で戸数と共に記されていたと思われます。即ち、陳寿が戸数・道里を略載しようと思えばできたのですが、只でさえ二十一国もある倭の小国の道里をそれぞれ個別に文章で書いていくことは大変手間のかかることであり、しかも極めて困難なことでもあります。

 ここで倭国地図を眺めていた陳寿が、記載の困難さに当惑し、中国史家らしく嘆息交じりに漏らした感想が、「女王國以北は其の戸数・道里を略載可なりしも、其の余の旁國は遠絶にて詳らかにし得ず」なのだと思われます。多分其の余の傍国の位置は地図上に大雑把にしか記されていなかったのでしょう。

 それでも気を取り直した陳寿がなんとかしてこれ等二十一国の道里を略載しようとして思いめぐらした結果、考え付いたのが「次有・・国、次有・・国」と連続して記載する方法なのだと思われます。

 陳寿はこのように記載することで、これ等二十一国が国境を接して連続する国々であることを示し、更にはこの文を挿入したことで、これ等二十一国の道里を略載した積りなのでしょう。

 しかし、さすがの陳寿もこれ以上面倒な記載を続けるのは嫌になり、読者があまり興味がなさそうな小国の戸数までを記載するのは止めてしまったのだと思われます。

 伊都国に滞在していた帯方郡使は、伊都国の北に隣接して斯馬国が有るので、最初に①斯馬国から記述を始めたことは十分に有り得ることです。そして最後は伊都国の東に接する㉑奴国で終わっていることから、連続する二十一国とは①斯馬国から㉑奴国迄、伊都国を起点にぐるりと反時計回りに一周廻って帰ってくることになります

 この考えを私は【反時計回り連続説】と名付け、この考えを利用することで、これ等の二十一国の比定に利用できると考えたわけです。


 

全国邪馬台国連絡協議会 個人会員の私の邪馬台国論

弥生時代は戦乱の多い世となりましたが、文明の発展はめざましく、そのうちに邑同士の和睦が進むと、防衛力の面でも食料や金属器土器類の物資の生産や流通の面でも有利なように、近隣の邑が多数結託して小国が形成されていき、遂に倭には百餘国もの小国が林立するようになりました。  後漢の班固が前漢時代(BC206-AD8)のことを書いた『漢書地理志』には「楽浪海中に倭人有り。分かれて百餘国を為し、歳時を以て来たりて献見すると云う」とあります。  この時代既に倭は漢に朝貢していたようです。但し前漢時代の倭は未だ国家としての体を為しておらず、百餘国在った倭の小国は歳時(渡海の時期である初夏)になると小国毎に各々海を渡り、楽浪郡に漢への朝貢を求めて来ていたものと思われます。  やがて時代が進み後漢(AD25-220)ともなる頃には、倭の小国間の連携が進んで連合国が形成され、国家としての体制が次第に整ってきていたようです。  南朝宋の范曄の記した『後漢書東夷伝』には建武中元二年(AD57)光武帝が【漢委奴国王】銘の金印を倭奴国王に授与したことや、永初元年(AD107)安帝に生口160人を貢献した倭国王帥升らが記されており、初期の倭国が誕生していたことが確認されます。この時後漢に貢献する倭の連合国を倭国と名付けたのは勿論後漢朝です。そして倭国王帥升等と書かれた理由は、この時安帝に貢献したのは倭国連合を形成する複数の小国の王達であり、その代表が倭国大王たる帥升だったからでしょう。  初期の倭国は勿論地域国家であり【漢委奴国王】銘の金印が志賀島から発見されていることから、倭国を形成する小国の一つ奴国が現在の福岡市圏内に在ったのは明白です。即ち倭国が誕生した場所は奴国を含む地域で、壱岐・対馬ルートにより大陸との交易が盛んで、日本列島内で最も早く大陸の文化が移入されていた九州北西沿岸部だったものと思われます。  その後中国では後漢が滅び、魏・呉・蜀の三国時代となった頃には倭国連合に統合される小国の数も増えてきていたらしく、倭国は次第に国家としての完成度を高めていたようです。  『魏志倭人伝』の冒頭に「倭人は帯方東南大海之中に在り。山島に依って国邑を為す。嘗て百餘国、漢の時朝見する者有り。今使訳通じる所三十国」と記されています。  この文は明らかに『漢書地理誌』を踏襲しており、変わった点と云えば朝貢の

zenyamaren.org

邪馬台国問題に決着をつけるサイト

『魏志倭人伝』を書いた陳寿が参考にした「倭国報告書」は、帯方郡使が倭国を訪問した際、伊都国滞在中に書いたものであった。 つまり、伊都国以降の奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国、及び女王国以北の連続する二十一国の記事は全て、郡使が伊都国で倭人から伝聞した情報で書かれたことになる。即ち、伊都国を中心とした放射説、及び反時計回り連続説が成り立つのである。

0コメント

  • 1000 / 1000