弥生時代は戦乱の多い世となりましたが、文明の発展はめざましく、そのうちに邑同士の和睦が進むと、防衛力の面でも食料や金属器土器類の物資の生産や流通の面でも有利なように、近隣の邑が多数結託して小国が形成されていき、遂に倭には百餘国もの小国が林立するようになりました。
後漢の班固が前漢時代(BC206-AD8)のことを書いた『漢書地理志』には「楽浪海中に倭人有り。分かれて百餘国を為し、歳時を以て来たりて献見すると云う」とあります。
この時代既に倭は漢に朝貢していたようです。但し前漢時代の倭は未だ国家としての体を為しておらず、百餘国在った倭の小国は歳時(渡海の時期である初夏)になると小国毎に各々海を渡り、楽浪郡に漢への朝貢を求めて来ていたものと思われます。
やがて時代が進み後漢(AD25-220)ともなる頃には、倭の小国間の連携が進んで連合国が形成され、国家としての体制が次第に整ってきていたようです。
南朝宋の范曄の記した『後漢書東夷伝』には建武中元二年(AD57)光武帝が【漢委奴国王】銘の金印を倭奴国王に授与したことや、永初元年(AD107)安帝に生口160人を貢献した倭国王帥升らが記されており、初期の倭国が誕生していたことが確認されます。この時後漢に貢献する倭の連合国を倭国と名付けたのは勿論後漢朝です。そして倭国王帥升等と書かれた理由は、この時安帝に貢献したのは倭国連合を形成する複数の小国の王達であり、その代表が倭国大王たる帥升だったからでしょう。
初期の倭国は勿論地域国家であり【漢委奴国王】銘の金印が志賀島から発見されていることから、倭国を形成する小国の一つ奴国が現在の福岡市圏内に在ったのは明白です。即ち倭国が誕生した場所は奴国を含む地域で、壱岐・対馬ルートにより大陸との交易が盛んで、日本列島内で最も早く大陸の文化が移入されていた九州北西沿岸部だったものと思われます。
その後中国では後漢が滅び、魏・呉・蜀の三国時代となった頃には倭国連合に統合される小国の数も増えてきていたらしく、倭国は次第に国家としての完成度を高めていたようです。
『魏志倭人伝』の冒頭に「倭人は帯方東南大海之中に在り。山島に依って国邑を為す。嘗て百餘国、漢の時朝見する者有り。今使訳通じる所三十国」と記されています。
この文は明らかに『漢書地理誌』を踏襲しており、変わった点と云えば朝貢の
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