【卑弥呼】の魏朝貢は景初二年(AD238)
長野 剛 氏のイメージした卑弥呼像 (2013)
『魏志倭人伝』には倭女王卑弥呼は景初二年(AD238)に魏に朝貢したと記されますが、現在の古代史学界や考古学界の大勢、及び推理作家の故松本清張氏、邪馬台国九州説派重鎮である安本美典氏、その他多くの邪馬台国研究者がこの景初二年の朝貢は間違いで、景初三年(AD239)の朝貢が正しいと主張しておられます。
しかし私はやはり『魏志倭人伝』に記されたとおり、卑弥呼の使者が帯方郡へ到着したのは景初二年六月だったと考えています。
そもそも景初三年説が生まれた背景は『日本書紀』の神功紀に
「卅九年魏志曰く、明帝景初三年六月倭女王大夫難斗米等を遣して郡に詣る」
と記されるからでしょう。
『日本書紀』編纂部は当時遣唐使が持ち帰った『魏志倭人伝』や唐代に編纂された『晋書』『梁書』『北史』或いは『翰苑』等を参考にしていたようですが、それ等には
「魏景初三年公孫淵の誅されし後、卑弥呼始めて遣使朝貢す」
と記されるのを『日本書紀』編纂者が信じて、引用したのだと思われます。
ならば『晋書』『梁書』『北史』にそう記される理由は、これ等の史書を編纂した姚思廉や李延寿等が『魏志東夷伝』序文に「景初中大いに師旅を興して淵を誅す、又潛軍を海に浮かべ樂浪帶方之郡を収む、而後に海表謐然し東夷屈服す」とあるのを見て、
どうやら魏が二郡を奪取したのは公孫淵が滅んだ景初二年八月以降らしいから、
『魏志倭人伝』の記す景初二年六月に帯方太守劉夏が倭使を洛陽に送るのは不可能であり、この記載は景初三年六月の間違いに違いないと考えたからでしょう。
ところが『魏志東夷伝』序文の「淵を誅す」と「潜軍を浮かべ」は又で繋がれており、「淵を誅した」後に「潜軍を浮かべた」とみるか、「淵を誅す」と「潜軍を浮かべ」を同時進行とみるかは読み手の受け取り方次第です。
元来、ここに来てくる潜軍とは、『魏志韓伝』にある
「景初中、明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣、越海定二郡」に対応しています。
即ち、魏明帝(曹叡・そうえい)は、景初中に帶方太守・劉昕(りゅうきん)と樂浪太守・鮮于嗣(せんうし)に山東半島で水軍を整えさせると、密かに船で黄海を越えて朝鮮半島に上陸、帯方・楽浪二郡に攻め込まさせ、公孫淵の支配から奪取しています。
明帝は公孫淵の所謂退路を断つために先ずは二郡を攻略したわけです。明帝が劉昕と鮮于嗣を派遣した時期は、景初元年に明帝が幽州刺史・毌丘儉を遣わして、公孫淵を洛陽に呼び付けた時、公孫淵が逆に反乱を起こし、遼隧(りょうすい)の戦いで毌丘儉を追い返し、自ら燕王を名乗った後位のタイミングでしょう。
その後明帝は景初二年正月、蜀の丞相・諸葛亮孔明との戦いを終え、洛陽に帰還したばかりの司馬懿仲達に兵4万を与え、公孫淵討伐軍を派遣しますが、司馬懿軍は奇しくも景初二年六月に遼東に到着し、長い攻城戦の末に遂に襄平城が陥落、公孫淵父子が首を刎ねられたのは、同年八月となります。
即ち公孫淵誅殺の原因となった二郡陥落は景初二年八月以前でなければなりません。
以上より、姚思廉や李延寿は『魏志東夷伝』を誤読したことになり、倭使が景初二年六月に帯方郡に至ることは可能です。
これを仮に、卑弥呼の使が帯方郡を景初三年(AD239)6月に訪れていたとするならば、倭使は景初三年12月に新帝と謁見したことになるのですが、そうすると倭女王卑弥呼に贈られたとされる『詔書』は当年僅か八歳の幼帝・曹芳が書いたことになります。
ところが実際に『魏志倭人伝』を読んで貰うとお解りになるように、この『詔書』は実に奥深い、如何にも生命の炎が燃え尽きる直前の明帝らしい、実に哀愁漂う文章書かれており、到底八歳の幼帝・曹芳の書とは考えられません。 例えば卑弥呼に対し、「我甚だ汝を哀れむ」等と語っているのは、到底八歳の幼帝の発する言葉ではありません。
これを景初三年説派の中には、曹芳の代役となった曹爽か司馬懿仲達の言葉とする人も居ますが、そこまで無理をして、想像の説を強弁するのもどうかと思われます。
ところで、卑弥呼は元々帯方郡を所管していた公孫氏に毎年貢献しており、倭使がいつものように帯方郡に朝貢に来てみると統治者が魏に変わっていたので、貢献先の変更を余儀なくされたとする説が有りますが、使者には普通そのような権限はありません。貧弱な献物も公孫氏を軽く見た倭国が元より献物を渋っていたとするよりも、使者を慌ただしく旅立たせた為に、貢物を用意する十分な時間が無かったと考えた方が遥かに自然です。
私は当時の倭の海人族は『魏志倭人伝』にも記されるとおり、日常的に対馬海峡や朝鮮海峡を渡って南北に市擢し、所謂・海のネットワークを構築していたと考えています。そして当時の倭と大陸間を駆け回る海人族の齎す情報は、我々現代人が想像するよりも遥かに速く伝達され、正確で、内容も細微に渡っていたものと思われます。
そういった海人族の齎す情報を仕入れていた卑弥呼は、魏と呉を天秤にかけて蝙蝠外交を繰り返し、使者をも簡単に殺してしまう公孫淵が、貢献するに値しない貧相な統治者であることを知っており、大事な生口を貢ぐことはしなかったはずです。
卑弥呼はある日、魏が帯方郡を制した情報を受け取ると大喜びし、慌てて使者を遣したのでしょう。だがその為に時間的余裕がなく、貢物が男女生口十人と僅かな布だけに止まってしまったものと思われます。南に接する狗奴国と睨み合う倭国は大国魏と通じることで、強力な後ろ盾を得ようとしたのだと思われます。この卑弥呼と魏の付き合いは、正始八年、倭国と狗奴国の戦端が開かれた時、遂に役割を果たす時が来ます。
帯方郡へ辿り着いた倭使は、帯方太守劉夏(劉昕の間違いか同一人物?)の遣わした役人の案内で交戦中の遼東半島を避け、劉昕と鮮于嗣も用いた海上ルートを利用して、黄海を越えて山東半島に渡ると、その後は陸路を辿り、冬前には魏都洛陽へ到着し、12月に死の床に就く直前の明帝に謁見が叶ったようです。
景初二年12月、倭使に謁見した直後から病の床に臥すようになった明帝は、同月30日に崩御し、景初三年元旦に崩御したように暦を改訂したとする説、景初三年1月22日死亡説がありますが(Wikipedia)、正確な月日を知ることは困難です。とりあえず明帝の崩御したその日のうちに、明帝の養子、小帝・斎王曹芳(そうほう)が、後を継いで即位したたとされます。
このように明帝の死後、迅速に曹芳を即位させたにもかかわらず、魏は年号を改元せず、景初三年の儘としました。その理由はやはり景初三年を明帝の喪中としたのに加え、明帝の急な死により魏が政情不安定となったことを、敵対する呉や蜀に暫くの間悟られたくなかったのでしょう。
即位したばかりの幼帝・曹芳は、
「現在造営中の宮殿の工事については、先帝の遺詔によって中止とし、官庁に属する60歳以上の奴婢(ぬひ)を解放して平民とする」との詔を出したとされています。
それと同時に、曹家の血族である大将軍・曹爽(そうそう)と大尉・司馬懿仲達の二人が、当時八歳の幼帝・曹芳を補佐することにしています。やはり魏は、喪中とした景初三年の間に政権の安定を図ろうとしていたようです。
さて、此処迄は景初二年説で時系列を辿れましたが、魏の正使の悌儁が倭国の首都・邪馬台国を訪問し、卑弥呼に謁見したのは正始元年とされており、景初三年の情報がすっぽりと抜け落ちていることも、景初三年の卑弥呼朝献説の存在理由となっています。
この件について私は、景初三年正月を明帝の喪中とした魏は同年中に正使を派遣できなくなり、次の年に延期したのだと考えています。
ところが難升米・都市牛利等の倭使は明帝の言葉通り、景初三年中に帯方郡使が倭国に還し遣わしたはずです。私はこの時の帯方郡使は倭国調査隊の役も担っており、郡使往来常所駐と記される伊都国駐留中に倭国の内情を綴った【倭国報告書】を記録し、その書は帯方郡を経て、最終的には洛陽の官邸に届けられたものと考えています。
【倭国報告書】は西晋の時代となっても洛陽の書庫に残されており、陳寿が『魏志倭人伝』を書くときに参考資料としたのでしょう。
この説は榎一雄の【放射説】及び私の考案した【反時計回り連続説】が伊都国中心に書かれている理由を説明し、ひいては【邪馬台国九州説】を確定的にする大きな根拠にもなるものと考えております。
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