反時計回り連続説②

倭国地図
黒字と紫字は倭国=女王国連合
黒字①~㉑は女王国の北の二十一国
黒字㋐~㋕は邪馬台国へ向かう道程中の国
紫字は倭国=女王国連合、その余の某国三国
赤字は狗奴国=熊襲・隼人連合
青字は芦原中国=素戔嗚尊・大国主命連合


① 斯馬國(しまこく)=筑前国志摩郡(福岡県糸島市糸島半島)
② 己百支國(いおきこく)=肥前国彼杵郡(長崎県佐世保市)
③ 伊邪國(いやこく)=肥前国北高来郡伊佐早(長崎県諫早市)
④ 郡支國(ぐしこく)又は(ぐきこく)=肥前国五島列島(長崎県五島市)
⑤ 彌國(みなこく)=肥前国西彼杵郡(長崎市長崎市)
⑥ 好古都國(こうこつこく)=肥前国高来郡(長崎県島原半島)
⑦ 不呼國(ふここく)=肥前国杵島郡(佐賀県杵島郡白石町)
⑧ 姐奴國(さなこく)=肥前国佐賀郡(佐賀県佐賀市)
⑨ 対蘇國(とそこく)=肥前国三養基郡(佐賀県鳥栖市)
⑩ 蘇奴國(そなこく)=筑後国三潴郡(福岡県久留米市)
⑪ 呼邑國(こゆうこく)=筑後国八女郡(福岡県八女市)
⑫ 華奴蘇奴國(かなそなこく)=豊後国日田郡(大分県日田市)
⑬ 鬼國(きこく)=豊後国久住・九重(大分県竹田市久住町・玖珠郡九重町)
⑭ 為吾國(いごこく)=豊後国大分郡(大分県大分市)
⑮ 鬼奴國(きなこく)=豊後国速見郡(大分県別府市)
⑯ 邪馬國(やばこく)=豊前国宇佐郡耶馬渓(大分県中津市)
⑰ 躬臣國(くすこく)=豊後国玖珠郡(大分県玖珠郡玖珠町)
⑱ 巴利國(はりこく)=筑前国杷木郡(福岡県朝倉市)
⑲ 支惟國(きいこく)=肥前国三養基郡(佐賀県三養基郡基山町)
⑳ 烏奴國(うなこく)=筑前国三笠郡(福岡県大野城市)
㉑ 奴國(なこく) =筑前国那の縣(福岡県福岡市) 


 では実際にこれら二一ヶ国が連続しているかどうかを確かめねばなりません。

 ①斯馬国の次の②己百支國の比定は難しいので後回しとし、試しに後ろ向き、時計回りに進んでみることに致しましょう。

 ㉑奴国(なこく)の前は⑳烏奴国(うなこく)です。

 すると、実際に奴国の範囲と思われる福岡市・春日市・那珂川町の南に接して大野城市が有ります。大野城市は大野村が、大野城が有ることで大野城市となりました。

 大野城は倭国が唐と新羅の連合軍に大敗したAD662の白村江戦の後、唐の倭国侵攻に備えてAD663に天智天皇が建立を命じた朝鮮式山城です。

 烏奴(うな)と大野(おおの)の音の響きはかなり近いものがあり、郡使には(おおの)の音が(うな)に聞こえ、「倭国報告書」に烏奴国の字を充てて記載したことは十分に考えられることです。

 さて次の⑳烏奴国の前は⑲支惟國があり(きい)国と読めます。

 すると、大野城市南の佐賀県三養基郡には基山町があります。

 基山にもAD665に天智天皇の命で、基肄(きい)城が築かれています。

 基山町は昔から肥前国基肄(きい)郡と呼ばれていたようです。

 即ち、基肄(きい)国の名は卑弥呼時代から一千八百年間も残存しているようです。

 次に⑲支惟國の前の⑱巴利国は(はり)国と読めます。

 基山町の東に在る朝倉市は、甘木市と朝倉郡朝倉町、杷木町が合併して出来た市ですが、卑弥呼時代のこの国の中心地は、杷木(はき)に在ったものと思われ、杷木(はき)の音が郡使には(はり)に聞こえ、「倭国報告書」に巴利国と記載した可能性は高いでしょう。

 ⑱巴利国の前は⑰躬臣國(くすこく)です。

 此処には豊後国玖珠郡があります。躬臣と玖珠は何れも(くす)と読め、⑰躬臣國は玖珠国に比定できます。

 更にその前には⑯耶馬国(やばこく)が在ります。

 この地は地元九州人にはお馴染みの観光地で、紅葉や青の洞門で有名な耶馬渓があります。此処へ至ると音ばかりでなく、文字迄同じです。土地勘の全くない本州の研究者は、この耶馬国を頓珍漢な場所に比定する方が多いですが、九州人から見ると此の地しか有り得ません。

さて、奴国からここ耶馬国迄、ちゃんと繋がることが解ったので、反時計回り連続説はほぼ成り立ちそうに思えてきました。

 但し、⑯耶馬国(やばこく)の前の⑮鬼奴國(きなこく)からは、比定作業はやや難しくなってきますので、次は前の②己百支國から反時計回りに辿って行きたいと思います。

 最初の①斯馬国は伊都国の北に繋がる半島国なので、次に繋がる②己百支國(いおきこく)は伊都国の西に在るはずです。以下を反時計回りに辿って行きましょう。

①斯馬国の南に在る㋓伊都国の西には㋒末魯国が隣接します。この二国は既述の為、例によって簡略化に拘る陳寿により、連続する二十一国から省略されているようです。

ところが㋒末魯国に比定される肥前国松浦郡の西に接して彼杵(そのぎ)郡が在ります。長崎県佐世保市を中心とする地域です。私はこの彼杵国を②己百支國に比定します。

間にある二国を続けて省略された上に㋒末魯国は広大な領域を占める為、②己百支國は①斯馬国から相当離れた国となってしまい、二十一国が連続していることを解り難くした原因と思われます。

彼杵(そのぎ)と己百支(いおき)の双方共読み方が難しく音もかなり違って比定は困難だが、己百支国=彼杵郡は表音文字のだけでなく、表意文字からもアプローチできます。壱岐国が一つ島の国で一支国であることから、支は島の意味と考えられます。すると己百支国は百の島をとり囲む国くらいの意味になるでしょう。実際、佐世保市周辺は小さな島の密集する地域であり、現在九十九島と呼ばれています。長い時間経過で島が一つ減ってはいますが、弥生時代には百の島をとり囲む国=己百支国と呼ばれていたと十分考えることが出来ます。

次に有るのは③伊邪國(いやこく)です。

肥前国北高来郡伊佐早、現在の長崎県諫早市を中心とした地域に比定します。

(いさはや)→(いや)程度の違いは、十分に地名が現代に残っていると思われます。

次に有るのは④郡支國(ぐしこく)です。次に繋がる長崎県五島列島に比定します。

五島(ごしま)→(ぐし)で、地名にも関連性があります。

壱岐国=一支国が一つ島の国で、支は島の意味でしたが、郡は群に通じ、郡支国は群を為す島の国、群島国と考えられます。弥生時代には群を為していた島が今では五個の島に集約されたようです。

次に有るのは⑤彌奴國(みなこく)です。肥前国西彼杵郡、現在の長崎市辺りに比定されます。

不彌国と奴国を併せたような國名を持つ彌奴國ですが、私は筑前国で隣り合う奴国と不彌国を、奴国は海人族の安曇族が、不彌国は同じく海人族の住吉族が治めていた国だと考えています。即ち彌奴国は、海運上重要な長崎の地に安曇族と住吉族が両族共に住んでおり、共同で統治していた国ではないかと考えられます。

次に有るのは⑥好古都國(こうこつこく)です。肥前国高来郡、現在の島原半島に比定します。

高来(たかく)郡は(こうこ)郡とも読めるので、高来(こうこ)都(津)国に繋がります。

更に島原半島南端には口之津港があります。現在では(くちのつ)港と呼ばれているが、弥生時代は高来の津→(こうのつ)港だったかもしれません。

 次は⑦不呼國(ふここく)です。

 私は肥前国杵島郡、現在の佐賀県杵島郡白石町を中心とした地域に比定します。

 此の地には嘗ての須古村が含まれ、不呼村に通じます。同地は弥生時代に須古(すこ)と呼ばれていたが、郡使には不呼(ふこ)と聞こえたか、或いは元々不呼(ふこ)だったものが、時代と共に須古(すこ)と訛ったのかも知れません。

 次は⑧姐奴国(さなこく)です。

 この国は肥前国佐賀郡。小城郡。神崎郡。即ち現在の佐賀県佐賀市。小城市。神埼市。神崎郡吉野ヶ里町辺りに比定します。

 (さな)→(さが)と名称に関連性が認められます。

奴(な)は後の世で賀(が)に訛ったのではないでしょうか?

有名な吉野ヶ里遺跡はこの国に含まれますが、『魏志倭人伝』には特に指摘がなく、弥生時代中期(二世紀)に隆盛を極めた吉野ヶ里国は、卑弥呼時代の弥生時代末期(三世紀前半)は既に衰退調だったと考えられます。

 次の⑨対蘇國(とそこく)⇒(とすこく)には、肥前国養父郡。三根郡。

 現代の佐賀県鳥栖市を中心とした地域を比定します。(とそ)→(とす)と、現在でも地名が殆ど変わっていないものと思われます。

 次は⑩蘇奴國(そなこく)です。

 筑後国御井・三潴郡。現在の福岡県久留米市に比定します。

 同地は地名からの比定は困難ですが、反時計回り連続説で、次に繋がる位置に在ることから比定されます。三潴(みずま)は海人族水沼君(みずまのきみ)が治めていた国で、当時の筑後川下流域は大雨の度に氾濫し、三日月湖(水沼)が多かったことからついた名のようです。蘇奴(そな)と三潴(みずま)の響きは僅か乍ら通じるものがあります。

 次は⑪呼邑國(こゆうこく)なのですが、反時計回り連続説で三潴郡の次に来るのは、筑後国山門郡=邪馬台(やまと)国になります。この地も既述ということで、簡略化好きの陳寿に省略されてしまっているようです。

此処さえ陳寿が省略しなかったら、所謂【邪馬台国論争】なるものは存在しなかったのですがねえ。しかしまあ、そのお陰で、古代史ロマンを十分に楽しませてもらいましたよ。

 呼邑国は邪馬台国の次に繋がる、筑後国八女郡、現在の福岡県八女市に比定します。八女市黒木町にこの国の中心が在ったと思われ、 (こゆう)⇒(くろき)の発音に若干の関連性が認められます。

 さて次は比定がかなり難しい⑫華奴蘇奴国(かなそなこく)です。

 反時計回り連続説で八女の東方を見ると、豊後国日田郡が適合しますが、その地には、少し前まで前津江・中津江・上津江村が在ります。私は中津江村辺りに、この国の中心地が在ったのではないかと考えました。

 中津江村には鯛生金山が有ります。明治時代に発見された金山ですが、鉱脈は昔からありますから、弥生時代にも同地で金が採れたがそのうち産出量が減り、採掘技術が革新されるまで忘れ去られていたかも知れません。私は華奴蘇奴国は金蘇奴国と見て、金が出た国なのでこの名が付けられたのではないかと考えました。

 さて次の⑬鬼国(きこく)ですが、私はその名の通り、鬼が住む国だと考えました。

 鬼の付く地名は全国に多数ありますが、特に火山国に多いようです。

 火山国に行ったことがある方なら解るはずですが、ゴツゴツした溶岩、火砕流、火山灰に覆われ、植物の生育が悪くて森林が少なく、溶岩台地の間には草原や灌木林が散在し、あちこちから噴煙や湯、硫黄が噴き出しており、更には時折噴火して多数の死傷者を出す火山国は、まさしく鬼の住むに相応しい国です。

 そう考えつつ、反時計回り連続説でみると、日田郡の東には久住連山が在ります。

 昔久住(くじゅう)国は鬼の住む鬼住(きじゅう)国と呼ばれていたのが、住民たちが鬼の住む国と呼ばれるのは嫌だということで、何時頃からか訛って久住国になったのではないかと思われます。

 次は⑭為吾国(いごこく)です。

 すると豊後国久住の東には大分郡があります。私は為吾国にレ点を付けて、為レ吾国としました。そして吾為(ごい)国、(ごういた)国、王居た(おおいた)国と読み、大分郡、現在の大分市周辺に比定しました。

 この説には四世紀の景行天皇九州巡行の折、此の地に暫く留まったことで、王来た→大分となったとする異説がありますが、景行天皇来豊後、伝説が変更されたのかも知れません。これは不彌国=宇美国が、神功皇后が誉田別命を産んだ国なので、産み国から宇美国と云われるようになったとされる伝説と同様に、後付のものです。

 大分に王が居たのは弥生時代からの話で、此の地には卑弥呼時代以前から代々の王が居て、伊都国と同じく倭国参加後は、卑弥呼の女王国連合に統属していたと考えられます。

 次は⑮鬼奴國(きなこく)です。為吾国=大分国で太平洋岸に達しましたから、今度は反時計回りに北へ向かうことになります。すると其処には豊後国速見郡、現在の大分県別府市が在ります。二つめの鬼国です。別府も久住同様、由布岳、鶴見岳が連なる火山国で温泉国であり、鬼の住む国に十分に適合します。鬼国=久住国との違いはこの地には良港があり、海運業の要地だったものと思われます。つまり港=那の在る国、即ち安曇族の国です。

 『魏志倭人伝』には「女王国の東、海を渡ること一千余里、復国有り、皆倭種なり」と記されます。この場合の女王国は邪馬台国ではなく、女王国連合=倭国を指すと思われます。女王国の東の海とは豊後水道であり、女王国の東の海を一千余里渡った所に有る倭種の国とは四国になります。

実際別府から東の海を遠望すると四国が見えます。大分県臼杵市と愛媛県八幡浜市の間は70㎞程あり、短里で一里=70mとすると70㎞は丁度一千里となり、豊後水道を渡る距離は一千余里。

陳寿は女王国の東の海を渡った先の四国には倭人と同種の人間が住んでいるが、四国が倭国には含まれないことを知っていたので、四国の住民を敢えて倭人とは書かずに倭種と書いたと思われます。

次の⑯邪馬國以下は既述なので、これで女王国より北の連続する二十一国は全て比定されました。


全国邪馬台国連絡協議会 個人会員の私の邪馬台国論

弥生時代は戦乱の多い世となりましたが、文明の発展はめざましく、そのうちに邑同士の和睦が進むと、防衛力の面でも食料や金属器土器類の物資の生産や流通の面でも有利なように、近隣の邑が多数結託して小国が形成されていき、遂に倭には百餘国もの小国が林立するようになりました。  後漢の班固が前漢時代(BC206-AD8)のことを書いた『漢書地理志』には「楽浪海中に倭人有り。分かれて百餘国を為し、歳時を以て来たりて献見すると云う」とあります。  この時代既に倭は漢に朝貢していたようです。但し前漢時代の倭は未だ国家としての体を為しておらず、百餘国在った倭の小国は歳時(渡海の時期である初夏)になると小国毎に各々海を渡り、楽浪郡に漢への朝貢を求めて来ていたものと思われます。  やがて時代が進み後漢(AD25-220)ともなる頃には、倭の小国間の連携が進んで連合国が形成され、国家としての体制が次第に整ってきていたようです。  南朝宋の范曄の記した『後漢書東夷伝』には建武中元二年(AD57)光武帝が【漢委奴国王】銘の金印を倭奴国王に授与したことや、永初元年(AD107)安帝に生口160人を貢献した倭国王帥升らが記されており、初期の倭国が誕生していたことが確認されます。この時後漢に貢献する倭の連合国を倭国と名付けたのは勿論後漢朝です。そして倭国王帥升等と書かれた理由は、この時安帝に貢献したのは倭国連合を形成する複数の小国の王達であり、その代表が倭国大王たる帥升だったからでしょう。  初期の倭国は勿論地域国家であり【漢委奴国王】銘の金印が志賀島から発見されていることから、倭国を形成する小国の一つ奴国が現在の福岡市圏内に在ったのは明白です。即ち倭国が誕生した場所は奴国を含む地域で、壱岐・対馬ルートにより大陸との交易が盛んで、日本列島内で最も早く大陸の文化が移入されていた九州北西沿岸部だったものと思われます。  その後中国では後漢が滅び、魏・呉・蜀の三国時代となった頃には倭国連合に統合される小国の数も増えてきていたらしく、倭国は次第に国家としての完成度を高めていたようです。  『魏志倭人伝』の冒頭に「倭人は帯方東南大海之中に在り。山島に依って国邑を為す。嘗て百餘国、漢の時朝見する者有り。今使訳通じる所三十国」と記されています。  この文は明らかに『漢書地理誌』を踏襲しており、変わった点と云えば朝貢の

zenyamaren.org

邪馬台国問題に決着をつけるサイト

『魏志倭人伝』を書いた陳寿が参考にした「倭国報告書」は、帯方郡使が倭国を訪問した際、伊都国滞在中に書いたものであった。 つまり、伊都国以降の奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国、及び女王国以北の連続する二十一国の記事は全て、郡使が伊都国で倭人から伝聞した情報で書かれたことになる。即ち、伊都国を中心とした放射説、及び反時計回り連続説が成り立つのである。

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