帯方郡から邪馬台国へ至る道程

 『魏志倭人伝』は帯方郡から邪馬台国へ至る道程上の国々に関し、戸数・道里、地形、官名、風習等を略載していますが、これ等の国々は既に江戸時代、新井白石によりほぼ比定されており、現在でも帯方郡、狗耶韓国、對馬国、一支国、末魯国、伊都国、奴国に関しては殆どの研究者の同意を得るところとなっています。

但し不彌国に関しては、筑前国穂波郡(現在の飯塚市辺り)とする異説がありますが、私は不彌国の名称と伊都国・奴国から極めて近い百里とされることからも、やはり新井白石説の糟屋郡宇美町でよいものと考えています。

尚、投馬国については諸説紛々ながら、私は薩摩国に比定しています。

『魏志倭人伝』は日巫女が卑弥呼、那国が奴国と記されるように、所謂蔑字・悪字で書かれています。同様に薩摩国は悪字で殺馬国と書かれていたものが、長い間筆写を重ねるうちに殺の字が略されて、投の字となり、投馬国と記されたものが現代に残るのではないかと考えられます。

投馬国は邪馬台国の北に有る倭国の構成国だとする研究者も多いようですが、この説は『魏志倭人伝』に単に投馬国が邪馬台国の前に記されることから、連続説でそう読んでいるに過ぎないと思われます。

しかし連続説では、邪馬台国は九州南海中に沈むか種子島辺りの国となり、狗奴国の置き場も無く、どうやっても説明不能となりますが、放射説なら投馬国は伊都国から南に水行二十日、邪馬台国は伊都国から南に水行すれば十日、陸行すれば一月で至るので、投馬国が邪馬台国より南に有ると云うことで、『魏志倭人伝』が説明できるようになります。

さて、新井白石が比定した、投馬国を除く帯方郡から邪馬台国へ至る道程上の国々は、

帯方郡(韓国京城府=ソウル市辺り)

狗耶韓国(韓国金海市・釜山市辺り)

㋐對馬国(つしまこく)=対馬=対の島(二つ島)国

㋑一支国(いきこく) =壱岐(一つ島)国

㋒末魯国(まつろこく)=肥前国松浦郡(佐賀県唐津市・伊万里市・長崎県松浦市)

㋓伊都国(いとこく) =筑前国怡土郡(福岡県糸島市前原)

㋔奴国(なこく)=筑前国那縣(福岡県福岡市・春日市・那珂川町・新宮町)

㋕不彌国(ふみこく)=筑前国宇美(福岡県糟屋郡宇美町)

㋖邪馬台国(やまたいこく)=筑後国山門郡(福岡県みやま市)であり、

それぞれの国へ至る里程(距離)は、

帯方郡-狗耶韓国=7千余里。水行。乍南乍東。

狗耶韓国-対馬国=1千余里。渡海。釜山港-厳原港 =108㎞

対馬国-壱岐国 =1千余里。渡海。厳原港-郷ノ浦港=65.5㎞ 南 リン海

壱岐国-末魯国 =1千余里。渡海。郷ノ浦港-唐津港=42㎞ 印通寺港-呼子港=26㎞

末魯国-伊都国 = 5百里。東南陸行。唐津港-平原=37㎞ 呼子港-平原=47㎞

此処迄の里程を全て加えると、帯方郡-伊都国=1万5百余里となります。

上の表より『魏志倭人伝』で使用される里程を実際の距離と比較すると中国文献にある長里、一里=435mのはずはなく、明らかに短里、一里=60~100mが使われているようです。

邪馬台国畿内説派は連続説を採用しているので、1万5百余里に伊都国-奴国の東南百里と奴国-不彌国の東百里を足すと、帯方郡-不彌国が1万7百余里となってしまいます。

ところが『魏志倭人伝』には帯方郡-女王国(邪馬台国)は1万2千余里と記されています。

すると帯方郡-邪馬台国の1万2千余里から帯方郡-不彌国の1万7百余里を引いた不彌国-邪馬台国は僅か1千3百余里しか残りません。これは壱岐国-伊都国の1千5百余里よりも短い距離で、到底不彌国から畿内大和に到達できる距離ではありません。

困った畿内説派はこの里程の記事は無かったことにして、不彌国以降は日程記事のみを使うと勝手に決めたようです。更に畿内説派は、投馬国や邪馬台国へ向かう南は東の間違いとして、不彌国から東に投馬国迄の水行二十日と投馬国-邪馬台国間の水行十日+陸行一月を全て足し併せることで、なんとか邪馬台国を畿内大和に持っていけるとしています。

このように『魏志倭人伝』に様々な改竄を加えねば決して成り立たない畿内説派は、九州説に対しては、放射説は文法上有り得ないと一方的に禁止して連続説を強要、不彌国-投馬国の南水行二十日と投馬国-邪馬台国の南水行十日陸行一月を全て足すと1千3百里を遥かに越え、九州南海上に行き着いてしまうではないかと非難しています。

このように畿内説派は自説に対しては『魏志倭人伝』を自説に合うように、平気で改竄しまくりですが、九州説派に対しては急に厳しくなり、『魏志倭人伝』の読み方にさえも厳密な制限を加えています。

そして各メディアを利用して、『方向で不利だが距離で有利な畿内説と方向で有利だが距離で不利な九州説』などと発言し、如何にも畿内説と九州説とが五分五分であるかのように印象づける操作をしていますが、九州説派は放射説を使いさえすれば伊都国-邪馬台国の1千5百余里を南水行十日陸行一月の日程で無理なく再現できるのです。

実は放射説が文法上成り立たないとする畿内説派の論には何の根拠もありません。

伊都国から『南邪馬台国へ至る水行十日』

伊都国から南の邪馬台国へ水行する場合、伊都国の南は山ですから直接向かうことは出来ません。だから海岸線を辿りながら、九州沿岸を回り込み南へ向かうことになりますが、東回りでは相当遠回りとなるので現実的には西回りルートを進むことになります。ところが末魯国から伊都国迄「行くに前に人を見ず」と記されるほど困難な道程をわざわざ陸行して来た郡使が今来たばかりの行程を逆行するはずがありません。

つまり、『魏志倭人伝』にある邪馬台国と投馬国への水行行程は伝聞記事なのです。

郡使が倭人から伝聞した伊都国から邪馬台国への水行行程は、伊都国の港を出た船は先ずは西に向かって進み、平戸島を周回か平戸瀬戸を通過後南下し長崎半島先端の野母岬を回ると、次は東行して島原半島と天草下島の間の早崎瀬戸を抜けて有明海に入ります。すると今度は北上して奥地の干潟地帯迄入り込んで、東岸にある矢部川河口から遡上し、現在の筑後市船小屋辺りで船を降りることになります。其処からは卑弥呼の居城があったと思われる山門郡瀬高町の女山の麓迄はほんの僅かです。この水行行程は陸行よりもかなり回り道となるので、当時陸行よりも遥かに足の速かった船でも、十日は十分にかかったことでしょう。

伊都国から投馬国へ至る『南水行二十日』

同様に伊都国から南水行二十日で到達する投馬国は、途中までは邪馬台国と同じ航路を辿った後、早崎の瀬戸から有明海には入らずにそのまま更に南に水行し、薩摩半島を大きく回り込んで北上した現在の鹿児島市辺りに投馬国があったと思われます。その水行距離は丁度、邪馬台国迄の二倍程になります。

 

伊都国から邪馬台国へ至る『南陸行一月』

放射説によると伊都国-邪馬台国の陸行距離は1千5百余里となりますが、短里により一里=60~100m程だったので、1千5百余里はメートル法では90~150㎞程となります。

 弥生時代伊都国から邪馬台国へ陸行するには各小国の中心地を結んだ当時の街道を辿っていたはずですから、伊都国(糸島市平原)から日向峠を越えて南東の奴国(春日市須玖岡本)に到り、烏奴国(大野城市)、支惟国(基山町)、対蘇国(鳥栖市)、蘇奴国(久留米市)を経由して、邪馬台国(みやま市)に至ったと思われますが、この道程を地図上で現在の道路距離で測ると87㎞程になります。ところが弥生時代の橋もトンネルも無い道は、現在と比較にならない程曲がりくねっていたと思われ、この道程は100㎞を優に超えていたことでしょう。

即ち伊都国-邪馬台国を1千5百余里とする『魏志倭人伝』の記事は現実と完全に合致しているのです。

次に『魏志倭人伝』ではこの1千5百余里を陸行するには一月を要したとされます。

山だらけの日本では当時街道と云えども山道で、トンネルなんて無いので山越え、崖やガレ場のへずりは必須。橋が架かっていない場合も多くて、谷底迄降りてから川を渡渉する等、大きな荷物を抱えての通行は相当困難で、夜毎の泊まりや食事その他の頻回の休憩を考えると一日の歩行距離は3~4㎞に留まり、1千5百余里=100㎞強の距離を通行するのに、一月は十分に要したことでしょう。それを橋もトンネルも有りの現代の舗装道路の感覚で、100㎞位は数日で簡単に歩行できたはずと考えるのは、正に古代の姿を想像できない現代人の机上の空論に過ぎません。

 ところで、最近は邪馬台国九州説派の方でも、投馬国に到る水行二十日と邪馬台国に到る水行十日陸行一月は帯方郡を起点として放射的に考えるとする新説を展開しているようですが、その場合は、帯方郡から末蘆国へ至る1万余里が水行十日で、末蘆国から邪馬台国へ至る2千余里が陸行一月となるはずです。
 しかしそうなると、帯方郡から投馬国に至る水行二十日はどう考えればよいのでしょうか?

 この説では帯方郡から末蘆国に至る水行距離十日の二倍の水行距離にある投馬国は、薩摩国には比定できなくなり、沖縄本島くらいの距離になるはずです。

 其れ共、南に連続させるのは無理なので、邪馬台国への道程のみは南を支持しつつ、投馬国への道程に限っては、南を東に読み替えて、投馬国を尾張国辺り迄持って行こうと云う算段でしょうか? 兎に角、この説も又、邪馬台国畿内説同様、水行・陸行の日程距離を自説に合わせる為に無理な操作を行っているに違いない論です。

全国邪馬台国連絡協議会 個人会員の私の邪馬台国論

弥生時代は戦乱の多い世となりましたが、文明の発展はめざましく、そのうちに邑同士の和睦が進むと、防衛力の面でも食料や金属器土器類の物資の生産や流通の面でも有利なように、近隣の邑が多数結託して小国が形成されていき、遂に倭には百餘国もの小国が林立するようになりました。  後漢の班固が前漢時代(BC206-AD8)のことを書いた『漢書地理志』には「楽浪海中に倭人有り。分かれて百餘国を為し、歳時を以て来たりて献見すると云う」とあります。  この時代既に倭は漢に朝貢していたようです。但し前漢時代の倭は未だ国家としての体を為しておらず、百餘国在った倭の小国は歳時(渡海の時期である初夏)になると小国毎に各々海を渡り、楽浪郡に漢への朝貢を求めて来ていたものと思われます。  やがて時代が進み後漢(AD25-220)ともなる頃には、倭の小国間の連携が進んで連合国が形成され、国家としての体制が次第に整ってきていたようです。  南朝宋の范曄の記した『後漢書東夷伝』には建武中元二年(AD57)光武帝が【漢委奴国王】銘の金印を倭奴国王に授与したことや、永初元年(AD107)安帝に生口160人を貢献した倭国王帥升らが記されており、初期の倭国が誕生していたことが確認されます。この時後漢に貢献する倭の連合国を倭国と名付けたのは勿論後漢朝です。そして倭国王帥升等と書かれた理由は、この時安帝に貢献したのは倭国連合を形成する複数の小国の王達であり、その代表が倭国大王たる帥升だったからでしょう。  初期の倭国は勿論地域国家であり【漢委奴国王】銘の金印が志賀島から発見されていることから、倭国を形成する小国の一つ奴国が現在の福岡市圏内に在ったのは明白です。即ち倭国が誕生した場所は奴国を含む地域で、壱岐・対馬ルートにより大陸との交易が盛んで、日本列島内で最も早く大陸の文化が移入されていた九州北西沿岸部だったものと思われます。  その後中国では後漢が滅び、魏・呉・蜀の三国時代となった頃には倭国連合に統合される小国の数も増えてきていたらしく、倭国は次第に国家としての完成度を高めていたようです。  『魏志倭人伝』の冒頭に「倭人は帯方東南大海之中に在り。山島に依って国邑を為す。嘗て百餘国、漢の時朝見する者有り。今使訳通じる所三十国」と記されています。  この文は明らかに『漢書地理誌』を踏襲しており、変わった点と云えば朝貢の

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邪馬台国問題に決着をつけるサイト

『魏志倭人伝』を書いた陳寿が参考にした「倭国報告書」は、帯方郡使が倭国を訪問した際、伊都国滞在中に書いたものであった。 つまり、伊都国以降の奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国、及び女王国以北の連続する二十一国の記事は全て、郡使が伊都国で倭人から伝聞した情報で書かれたことになる。即ち、伊都国を中心とした放射説、及び反時計回り連続説が成り立つのである。

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