邪馬台国は筑後山門+肥後山門

女山(ぞやま)から見下ろした筑後山門の風景
筑後山門は、福岡県山門郡瀬高町(現在のみやま市)を中心に、柳川市、大牟田市、筑後市に八女市の一部(立花町)も含まれたと思われ、肥後山門を併せると、七万戸を収容する能力がありそうだ。
下の写真の中央に卑弥呼の墓と思われる権現塚古墳が見える。


私は【邪馬台国】を【筑後山門=筑後國山門郡】だと考えていましたが、
『魏志倭人伝』に戸数七万余戸と記される【邪馬台国】は、当時の人々の生活様式では人口密度はあまり高くなれないと考えられることからも、その領域は極めて広範囲に亘っていたと思われます。

そこで【筑後山門=筑後國山門郡】だけでは七万余戸に至らないのではないかとも思われました。

【筑後山門=筑後國山門郡】の領域は福岡県みやま市、柳川市、大牟田市、筑後市、それに八女市の一部(多分立花町)辺り迄が邪馬台国の領域に含まれていたと考えられます。

なかでも卑弥呼の居城の建つ邪馬台国の中心地はみやま市瀬高町辺りに在ったと考えられます。

当地には女山(ぞやま)と云う山があり、多分卑弥呼の居城は女山の麓辺りに在ったのでしょう。
又、この地には卑弥呼の墓と思われる径百余歩(50m)の権現塚古墳も見られます。

即ち、筑後山門は邪馬台国の条件が十分に整っているわけですね。


ところが邪馬台国研究者の中には所謂「縄文海進」の話を持ち出してきては、弥生時代の筑後山門は海の底だったので、弥生時代のこの地に七万戸の国なぞ有ったはずがないと云う人がいます。
しかしながら「縄文海進」は、弥生時代の遥か昔、縄文時代前期の今からおよそ六千年前にピークを迎えたとされるもので、考古学的見地からは「縄文海進」は縄文時代後期には既に終わっており、弥生時代の筑後山門は現在とほぼ同様の広大な平野が広がっていたものと思われます。
その証拠に地元瀬高町出身の考古学者【村山健治】氏が終身かけて行った発掘調査によると、筑後山門には弥生時代の遺跡どころか、縄文時代から弥生時代、古墳時代、更にはそれ以降の時代にかけて連続する遺物があちこちから大量に出土することが示されています。👇

みやま市の遺跡

. 【私達の祖先】日本人の原型はアジア大陸南部の古モンゴロイド(蒙古人種)で2万年前頃、日本列島に移動して牛川人、三ヶ日人,浜北人などとなり、さらにアイヌ人、琉球人などの縄文人(じょうもんじん)を形成した。氷河期(ひようがき)が去つた後(縄文後期)に北アジアの寒冷地に適応した新モンゴロイド人が南下し始め、日本にも広がって縄文人と混血をくり返して現在の日本人が形成された。(.)それでは著名な郷土史家であった村山健治氏の資料によって私達の古代遺跡多い故郷、みやま市の歴史を皆さんと探ってみましょう。(.)     .                             (清水谷遺跡出土)                          旧石器時代遺跡                                     縄文時代の遺跡            ①先縄文(旧石器時代)の遺跡は清水山一帯の30~300mの山地17ヶ所位で石器を発掘。 ②縄文遺跡は縄目を装した縄文土器など長田をはじめ山裾に近い7ヶ所位で発掘されている。 ③貝塚は二川貝塚(高田町下楠田)[縄文中期~弥生]蒲池(柳川)で発掘調査されている。 ④弥生遺跡は坂田、山門を中心に広範囲にある。新幹線建設地一帯でも確認されたがその際、高田町では古墳跡などを確認、矢部川付近(本郷)では出土品がなく、これは古代から大雨による氾濫により相当に暴れたたことを証明している。 ⑤タタラ製鉄とは直径70cm、高さ1nの炉でできており、竹の筒を長く継ぎ、「ふいご」を作って送風した。また山の崖の上昇気流を利用したと思われる。タタラから出る鉄滓(てつかす)が蒲池山(山川)田尻、田浦から出土している。弥生後期から古墳前期の遺跡と思われる。 ⑥土師器(はじき)とは弥生土器の流れをくむもので古墳時代に人々が使っていた茶色い土器で     野焼きで作られた。古墳時代後半(5世紀頃)は朝鮮半島から伝わってきた技術で窯で焼かれた灰色の須恵器が使われ女山や小田の古墳群などで発見されている。                                              弥生時代の遺跡               卑弥呼が

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村山氏の調査結果は、氏の著書『誰にも書けなかった邪馬台国』に纏められています。

大体が洪水に弱かったであろうと思われる、九州一の暴れ川筑後川流域の低湿地帯とは異なり、筑後山門は矢部川流域には在るも、川の周囲に河岸段丘を伴い、台地状の広大な平野が広がっています。即ち、水害を避ける場所に発達したと思われる弥生時代の集落には最適地なのです。

筑後山門の中でも標高の低い柳川市ですら弥生時代以降の遺跡が数多く見つかっていることからみても、この地が当時海底だったはずは無く、米作りの盛んな人口密集地帯だったものと思われます。

 実に邪馬台国の比定地にふさわしい場所です。 


多分、筑後山門は弥生時代末期の卑弥呼の時代には最盛期を迎え、当時の大都市と云える程の国域が発達していたことでしょう。

しかしそれでも、筑後山門の領域を全て合わせても面積は400平方㎞程でしかありません。

 邪馬台国の七万戸は人口に換算すると30万人程となりますので、当時の人口密度の低さを鑑みると狭すぎると思われ、邪馬台国=筑後山門説の大きなネックになっていました。 

ところが、筑後山門の南には福岡県と熊本県の県境を為す筑肥山地が在ります。

東部には最高峰である国見山(1018m)を中心に標高800mを超す山が断片的にみられるが、全般的には標高500m前後のなだらかな山地となっています(ブリタニカ国際大百科事典より)。 

この筑肥山地を邪馬台国と狗奴国の国境に違いないと考えたのが推理小説家の松本清張氏でした。

私も松本氏の主張を凡そ受け入れ、今まではそうに違いないと考えてきました。

 

 しかしよくよく考えてみますと、筑肥山地の南には肥後山門と呼ばれていた地域があります。

 肥後と筑後に二つの山門があり、しかもその二つは密着しているわけです。 

山門国が筑後山門と肥後山門の二つに分かれたのは、後世で九州のこの辺りが筑紫国と火国(肥国)に分けられてからであり、弥生時代にはそのような区分は無かったことでありましょう。 

しかも、松本清張氏が倭国と狗奴国の国境を為すと考えた筑肥山地は九州山脈のような急峻な山地とは違ってなだらかで、しかも山が高い部分は山門郡とは離れた東の方であり、二つの山門郡を繋ぐ西の方では筑肥山地は低く、更に海の近くでは山が断続的となっています。

 もし、肥後山門も邪馬台国の領域だとすれば、その範囲は現在の荒尾市、山鹿市、玉名市、玉名郡(南関町、長洲町、玉東町、和水町)迄をも含むことになり、その面積は720平方㎞に及びます。

するとこの二つの山門郡を合わせた面積は1100平方㎞を優に超え、戸数七万戸=人口30万人の大国が成立するに十分な広さを有するわけです。 多分その面積比率から言っても、戸数的には肥後山門の方が1.5倍くらい多かったのではないかと思われます。私は筑後山門が三万戸、肥後山門が四万戸程有ったものと考えました。
即ち、邪馬台国(筑後山門)は九州北部地方を占める倭国を構成する小国の中で、当時戸数七万余戸の人口を擁することが唯一可能な国だったと考えられるのです。(👇邪馬台国の領域地図)




全国邪馬台国連絡協議会 個人会員の私の邪馬台国論

弥生時代は戦乱の多い世となりましたが、文明の発展はめざましく、そのうちに邑同士の和睦が進むと、防衛力の面でも食料や金属器土器類の物資の生産や流通の面でも有利なように、近隣の邑が多数結託して小国が形成されていき、遂に倭には百餘国もの小国が林立するようになりました。  後漢の班固が前漢時代(BC206-AD8)のことを書いた『漢書地理志』には「楽浪海中に倭人有り。分かれて百餘国を為し、歳時を以て来たりて献見すると云う」とあります。  この時代既に倭は漢に朝貢していたようです。但し前漢時代の倭は未だ国家としての体を為しておらず、百餘国在った倭の小国は歳時(渡海の時期である初夏)になると小国毎に各々海を渡り、楽浪郡に漢への朝貢を求めて来ていたものと思われます。  やがて時代が進み後漢(AD25-220)ともなる頃には、倭の小国間の連携が進んで連合国が形成され、国家としての体制が次第に整ってきていたようです。  南朝宋の范曄の記した『後漢書東夷伝』には建武中元二年(AD57)光武帝が【漢委奴国王】銘の金印を倭奴国王に授与したことや、永初元年(AD107)安帝に生口160人を貢献した倭国王帥升らが記されており、初期の倭国が誕生していたことが確認されます。この時後漢に貢献する倭の連合国を倭国と名付けたのは勿論後漢朝です。そして倭国王帥升等と書かれた理由は、この時安帝に貢献したのは倭国連合を形成する複数の小国の王達であり、その代表が倭国大王たる帥升だったからでしょう。  初期の倭国は勿論地域国家であり【漢委奴国王】銘の金印が志賀島から発見されていることから、倭国を形成する小国の一つ奴国が現在の福岡市圏内に在ったのは明白です。即ち倭国が誕生した場所は奴国を含む地域で、壱岐・対馬ルートにより大陸との交易が盛んで、日本列島内で最も早く大陸の文化が移入されていた九州北西沿岸部だったものと思われます。  その後中国では後漢が滅び、魏・呉・蜀の三国時代となった頃には倭国連合に統合される小国の数も増えてきていたらしく、倭国は次第に国家としての完成度を高めていたようです。  『魏志倭人伝』の冒頭に「倭人は帯方東南大海之中に在り。山島に依って国邑を為す。嘗て百餘国、漢の時朝見する者有り。今使訳通じる所三十国」と記されています。  この文は明らかに『漢書地理誌』を踏襲しており、変わった点と云えば朝貢の

zenyamaren.org

邪馬台国問題に決着をつけるサイト

『魏志倭人伝』を書いた陳寿が参考にした「倭国報告書」は、帯方郡使が倭国を訪問した際、伊都国滞在中に書いたものであった。 つまり、伊都国以降の奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国、及び女王国以北の連続する二十一国の記事は全て、郡使が伊都国で倭人から伝聞した情報で書かれたことになる。即ち、伊都国を中心とした放射説、及び反時計回り連続説が成り立つのである。

2コメント

  • 1000 / 1000

  • makoto kodama

    2016.06.15 13:49

    いくお様。掲示板を読んで戴き、どうもありがとうございます。 私は『魏志倭人伝』を全約し、全面的に検討したところ、邪馬台国の位置は筑後山門以外有りえないと云う結論に至りました。 その理由はこの掲示板に十分網羅しており、今後共、更に充実させていく積りであります。 しかしながら、現在の世論は、邪馬台国畿内説が有利であるとか、邪馬台国九州説も九州内の邪馬台国比定地同士で争っているとかで、『魏志倭人伝』解読にはもはや誰も見向きもせず、各自が『魏志倭人伝』を無視した勝手な持論を展開し、「俺が!俺が!」と云い合っている状況です。 私の説も、『全国邪馬台国連絡協議会』辺りでもあまり話題になることもなく、殆ど無視されているみたいです。 実際、こうなると世論も 本当に邪馬台国の位置を決めてしまおうと思ってはいないのではないか? こんなものは謎の儘が良いのであって、決着がついてしまうと、もはやロマンは無くなる? 或いはこの辺りの研究、話題で食べている人の飯の種が無くなる? と思っているのではないか?と疑ってしまう次第です。 しかし私は、この問題に決着をつけない限りは、日本の古代史研究は、何時まで経っても手詰まりであり、先に進めないと考えているので、やはり自分の説を伝えていこうと、一生頑張る積りです。 そして、『邪馬台国筑後山門説』で、『古事記』『日本書紀』をどこまで解読していけるのかを、 現在ブログ『邪馬台国探訪』で行っておりますので、そちらの方も是非ご一読願いたいと思います。 それでは今後とも頑張っていきますので、応援の程、どうぞ宜しくお願い致します。
  • いくお

    2016.06.12 12:56

    はじめまして、元・山門郡瀬高町出身の古賀と申します。 子供の頃は小学校前の文房具屋さんだった「村山さん」に マインドコントロールされて(冗談です)「邪馬台国は筑後山門」だと 信じ込んで育ちました。 兒玉様の「私の邪馬台国論」の中にも「女山」や「権現塚」などがでてきて 自宅の近くだった権現塚で遊んだ思い出で、懐かしく読ませていただきました。 故郷を離れてもう40年超になりますが「邪馬台国」の話題になるとつい 読んでしまいます。以前に読んだ「日本書紀・古事記編纂関係者に抹消された 邪馬台国」(山科威 著)も参考になりましたが、兒玉様の「反時計回りの 連続説」も興味深く読ませていただきました。 兒玉様の今後の活躍を期待しております。